もともと『凶悪』は観る気満々で、これを書いている今はすでに観た後なんだが、結論からいえばどっちが先でもショックが大きいから一緒じゃないかと思う、と、リリーさんに伝えてあげたい(笑)
それはそれとして(笑)
実は主役の福山雅治の父親役に私は非常に懐疑的だった。
父親役ができない、と言うことじゃなくて、二枚目で陽性でかっこいい福山に、苦悩する父親ってできるのかなあと思ったのだ。
ところがそんな懸念がふっとんだ。
子供の取り違えを知り、福山が踏切で止まった車の中で、吐くようにしていう言葉に、尾野真知子同様ショックを受けた時、そこにいたのは福山雅治ではなく、当たり前のように血を優先させる父親「良多」だった。
是枝監督は、丁寧に丁寧に家族の姿を撮っていく一方、登場人物の内面を事細かに説明するようなセリフも演出もしない。
その代わり、良多の目に薄暗いものが陽炎のように立ち上っている。
薄暗いもの、と思うのは、映画前半での私は母親の心情に同調していて、良多にたいして激しく反感を覚えていたからだ。
でも終盤、彼が取り違えに関係した相手と会う場面で、心が一気に良多に傾いた。
良多は、彼の周囲で育まれている「血のつながりのない家族」の有り様に、打ち負かされる。一気に崩れ落ちていく。
崩れて、もう一度、「父親」をやり直そうとする。
↑この目を六年も育てた我が子にする・・・男親って男親って・・・
知人の男性(父親である)がこの映画を観たというのだが、前述の、私がショックをうけた良多の言葉を、覚えていなかった。尾野真知子がその言葉のことで良多を責めるシーンでやっと「そんなことをいってたなあ」と思ったそうだ。
たぶん、男性は、この映画で良多と同じ心の軌跡をたどるのだろう。
男とは、なんとまあ苦労の多い生き物なのか。
たしかにこれは、「父に<なる>」だ。
私は未婚で子供もないが、前半は尾野真知子の心情に同調してたと書いた。
だが良多が母親たちに打ち負かされたとき、私は良多に対して母性を感じて、少しだけ泣いた。
彼があまりに弱々しくて。
映画の終わり方も、良多がなにかの決断をしたわけではなく、父としての一歩を踏み出す決意が見えた、そんなところで終わっている。
もがく良多が、たまらなく愛しく思えた。
私がこの映画で泣いたのは、1シーンだけ。それも、目頭が熱くなった、という程度だ。
泣いてる暇はなかったのだ。しっかり見ていなければ、掬いとれないいろいろなものが画の中にあった。
一方で、私の周囲でこの映画を観た女性たちは、感想を「そんなに泣けなかった」の一言で終わらせた。
だがしかし、映画とは、「泣ける」かどうかで価値が決まるのか?