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2013年10月20日日曜日

『そして父になる』男は大変だ

珍しく邦画を観にいった理由は、仕事がらみでタダ券をもらったから・・・でもあるんだが、雑誌「映画秘宝」でリリー・フランキーが「(『凶悪』より)先に『そして父になる』を観て」と言っていたから。
もともと『凶悪』は観る気満々で、これを書いている今はすでに観た後なんだが、結論からいえばどっちが先でもショックが大きいから一緒じゃないかと思う、と、リリーさんに伝えてあげたい(笑)

それはそれとして(笑)
実は主役の福山雅治の父親役に私は非常に懐疑的だった。
父親役ができない、と言うことじゃなくて、二枚目で陽性でかっこいい福山に、苦悩する父親ってできるのかなあと思ったのだ。
ところがそんな懸念がふっとんだ。
子供の取り違えを知り、福山が踏切で止まった車の中で、吐くようにしていう言葉に、尾野真知子同様ショックを受けた時、そこにいたのは福山雅治ではなく、当たり前のように血を優先させる父親「良多」だった。

是枝監督は、丁寧に丁寧に家族の姿を撮っていく一方、登場人物の内面を事細かに説明するようなセリフも演出もしない。
その代わり、良多の目に薄暗いものが陽炎のように立ち上っている。
薄暗いもの、と思うのは、映画前半での私は母親の心情に同調していて、良多にたいして激しく反感を覚えていたからだ。
でも終盤、彼が取り違えに関係した相手と会う場面で、心が一気に良多に傾いた。
良多は、彼の周囲で育まれている「血のつながりのない家族」の有り様に、打ち負かされる。一気に崩れ落ちていく。
崩れて、もう一度、「父親」をやり直そうとする。

↑この目を六年も育てた我が子にする・・・男親って男親って・・・

知人の男性(父親である)がこの映画を観たというのだが、前述の、私がショックをうけた良多の言葉を、覚えていなかった。尾野真知子がその言葉のことで良多を責めるシーンでやっと「そんなことをいってたなあ」と思ったそうだ。
たぶん、男性は、この映画で良多と同じ心の軌跡をたどるのだろう。
男とは、なんとまあ苦労の多い生き物なのか。
たしかにこれは、「父に<なる>」だ。
私は未婚で子供もないが、前半は尾野真知子の心情に同調してたと書いた。
だが良多が母親たちに打ち負かされたとき、私は良多に対して母性を感じて、少しだけ泣いた。
彼があまりに弱々しくて。
映画の終わり方も、良多がなにかの決断をしたわけではなく、父としての一歩を踏み出す決意が見えた、そんなところで終わっている。
もがく良多が、たまらなく愛しく思えた。

私がこの映画で泣いたのは、1シーンだけ。それも、目頭が熱くなった、という程度だ。
泣いてる暇はなかったのだ。しっかり見ていなければ、掬いとれないいろいろなものが画の中にあった。
一方で、私の周囲でこの映画を観た女性たちは、感想を「そんなに泣けなかった」の一言で終わらせた。
だがしかし、映画とは、「泣ける」かどうかで価値が決まるのか?




2013年8月25日日曜日

『シリアル・ママ』(Serial Mom) 祝!DVD&BlueRay化!

大学生だったあの日。
お昼のワイドショーを見ていなかったら、私はこの映画の存在を知らないままだっただろう。
映画評論家のおすぎ氏が、困った顔をするアナウンサー(?)相手に熱弁をふるっていた。
「とにかくこの映画はすっごく面白いの!」
だから、私は観に行った。もう20年近く前のことだ。
そして、この映画を観に劇場へ行った、という事実のおかげで、会社で後輩から英雄のごとく崇められている今日この頃である(本当)。

ビバリーの魅力は、殺人そのものと同じくらい終盤の法廷劇にある。
シリアル・キラーと言えば去年の『悪の教典』を思い出すのだが、あの自己チュー殺人鬼のハスミンは犯行がばれて咄嗟に精神異常を装うという、引き出しの少なさを露呈したのに対し、彼女は堂々と無罪を主張するのだ。
それも、彼女は「私はあなたたちと同じだ」と言って、本当に無罪を勝ち取ってしまう。
ハスミンは人間の弱点をつくことはできるが、共感能力がまったくないため、人間性を理解しているとは言い難い。ビバリーは、家族を愛し生活を愛し社会を愛している。世間も社会も人間もよく知っている大人で・・・・・・ただ、共感できない相手をいたぶったり殺すことを厭わなくて、むしろそれを楽しんでいるだけのこと。
そして、無罪になったところで迎えるエンディングが素晴らしい。
シリアル・ママは、世間も社会も人間も知っていて、うまく立ち回る能力だってあるけれど、一瞬たりともそれらに委縮して自分を見失ったりはしないのだ。

それにしても、80年代を美人女優としてならしたキャスリーン・ターナーのこの雄姿は、あまりの衝撃とともに、この20年私の頭に焼きついて離れなかった。
再見して驚いたのは、自分がほとんどのシーンを覚えていたことだった。最近は昨日みた映画の内容だって忘れちゃうことがあるのにね。
当時のキャスリーン・ターナーの年齢とほぼ同じになったいま、またこの映画を観ることができて、これほど嬉しいことはない。
『シリアル・ママ』をDVD&BlueRay化した関係諸氏に、心からの感謝と敬意を表する次第であります。

↑映画史上、もっとも肉包丁の似合う女優

『終戦のエンペラー』(EMPEROR)  先の戦争をおもっての雑記

あの戦争やあの時代を描いた映画を必ずみるというわけではない。
でも観たら、考える。映画のことだけではなく、色んな事を。
今回は、その雑記にすぎないがご容赦いただきたい。

日本は、敗戦国としてものすごく幸運な国だった。
戦争を続ける力がもう残っていなかったこと。占領統治をアメリカが行ったこと。最高司令官が野心丸出しのマッカーサーだったこと。共産主義への警戒心が強かったこと。
でも映画の中で何度も語られていたとおり、天皇制が残ったことが、ずば抜けて大きい。
劇中フェラーズが話したとおり、昭和天皇が逮捕・処刑されていたら、復興は遠のいたに違いない。
戦争に負け、価値観がズタズタになった日本で、もし天皇まで否定されたら、玉音放送を聞いて文字通り「堪へ難きを堪ヘ忍び難きを忍び」降伏した人たちは、何をよすがに占領下を受け入れればよかったのだろう。

天皇制が残った影に、フェラーズという無名の男がいたという。
映画をみてパンフレットを読んで、家に帰ってからもいろいろ調べた。本も買おうかと思っている。
調べてみればもちろん、映画のようにフェラーズがすべて自分一人でがんばったわけではない。
だけど、フェラーズ、という、聞きなれない名前がきっかけで、私のようにあれこれ学び出す人間だっているわけだ。
この手の映画はなんでもそうだが、映画をうのみにせず、自分で調べて考えるきっかけにするべきだ。

私の父は昭和7年生まれで、戦後、台湾からの日本に引き揚げてきた。
そんな父は、子供の私に『西部戦線異状なし』を見せ、強制的に広島の原爆ドームと資料館に連れて行くような人である。私が大人になってからは、日本に引き揚げて見た焼けて何もなくなった町のことや彼自身の価値観が大きく崩れた話を何度も聞いた。
この映画に出てくる焼け野原となった東京の姿に、父の話がかぶる。
そんな彼はいつも言う。
「終戦じゃない。敗戦だ。終戦なんて言ってごまかすから、いろんなことを間違える」
自虐史観でもなんでもない。負けたのは事実だ。
先の戦争について思うとき、いつもそのシンプルなことを腹にすえてから始めている。


↑宇宙人ジョーンズはマッカーサーに全然似てない。
でもこのシーンの前、飛行機の中でのやり取りは好きだ。
まさしく、彼をみて日本は「アメリカ人の男ぶり」にヤラレたわけだから。

2013年4月3日水曜日

『ゼロ・ダーク・サーティ』(Zero Dark Thirty) 女・男社会・働き者

この映画の政治的軍事的な側面についてはとっくに語りまくられていていまさらだ。
私は「無知は罪だというのはわかっちゃいるが、でもなんでもかんでも知った方がいいってわけでもないわな」という気分になった、って程度でやめておく。

そういうこととは別に、私が強烈にイメージに残ったのは、主人公マヤの髪なんである。
映画の冒頭ではふわふわ巻き巻き編み編みと、不器用な私にはどう作るのかもわからない髪型で彼女は登場する。
中東のど真ん中に、えらく可愛らしく登場する彼女は、砂まみれのオフィスも気に入らず、先進国の快適さが皆無の世界に不満である。
ただし、マヤには拷問にひるまないガッツがあったのだが。
マヤの髪型は、物語が進むにつれて変化する。
こった髪型は消え、一つにひっくくるだけになる。
いつの間にか巻髪はストレートに。
ひっくくる髪はだんだんほつれていく。
最後は髪も結ばず、洗いざらしのような髪が砂交じりの風になぶられていく。
その彼女の姿には、映画冒頭のマヤはいない。
たくましく、ゆるぎない姿には、男たちですら、信頼を寄せる。

女性が、男性の多い職場で働き、実力を発揮するのは難しい。
どこかで彼女のようにぶつかり、かみつく日はやってくる。
ファッション雑誌のように、美しく、笑顔を絶やさず仕事をしている女性は、本当は少ない。
少なくとも、男性に伍して働く女性には。
(そういう手合いの女性の笑顔は、たいていは戦略的なものだ)

表情がこわばり、すさんでいくマヤの姿に、自分を重ねた働く女性は多いのではないだろうか。
ビグロー監督も、働く女性だ。
明らかに政治的な面で語られるだろう映画の中に、彼女は男性社会で働く女性の苦悩を、言葉にすることなく描いている。
そこに、感情移入の難しいテーマをもつこの作品に、心を寄せやすい隙がある。

最後の涙の解釈はいろいろだ。
あれは、ひとつの感情だけで流した涙ではない。
いろいろな感情が混じった涙だ。
ビン・ラディンの殺害、拷問、テロ、仲間の死・・・そのすべての意義を問い直すこと。
それらと比べれば小さいことなのだろうけど、でも涙の中のいくつもの感情のひとつには、われわれ働く女性たち全員が、一度は流した涙が混ざっているはずだ。
われわれ女は、なんて遠くに来てしまったのだろうと。


↑中盤。まだ巻き髪に可愛らしさあり。


↑クライマックス。もはや愛らしさはゼロ・ダーク・・・

2011年11月9日水曜日

『世界侵略:ロサンゼルス決戦(World Invasion:Battle Los Amgeles)』 エイリアンがマクガフィンになる日

SFを観に行ったつもりだった。エイリアン対人間を観に行ったつもりだった。昔から、未知の生物に対しスーパー兵器ではなく、現実の兵器や手持ちのものを利用して闘うというシュチェーションが大好きだったからだ。
しかしこの映画ではそのシュチェーションはさらに進化し、リアルで、明日にでも世界に起こりうる出来事のように描いている。映像も、物語も、である。
エイリアンの正体や目的などの謎解きについては重きをおいていない。これは『スカイライン-征服-』も同じなのだが、『スカイライン』は主人公カップルの身に起きた出来事にはSF要素が強かった。これが『世界侵略』では皆無に等しい。とにかくリアルなんである。
リアルさを強調したいのか俳優もずいぶんとリアルで、派手さのない演技派アーロン・エッカートが主演。本当に海兵隊にいそうだ。女優は、もはや「アクション女優」とカッコつきで呼んだ方がいいミシェル・ロドリゲス。メインキャストとしてクレジットされていないその他の海兵隊員を演じる俳優も、他の戦争映画か軍の出てくる海外ドラマで観たような記憶があり、とはいえ目立つ容姿ではない。本当に、ミシェル・ロドリゲス以外は華がなく、そこらにいそうな役者ばかりで、『スカイライン』とはまた違った地味な布陣である。

そもそも、この映画にエイリアンは不要である。
エイリアンの代わりにものすごく強力な正体不明の敵が出てきても同じことであって、それが宇宙から来るのか同じ人類なのかというだけの違いでしかない。
エイリアンは単なるマクガフィンであり、この映画は、強大な敵を前にどう戦うか、というシンプルで根本的で、実にミリタリーな思考でできあがっている。
だから、もし本当にエイリアンが地球に侵略してきたとしたら、この映画のように、我々の出来うる範囲で闘うしかないのだろう。
夢も希望もスーパー兵器もなく、これがリアルなのだと思うと、少しエイリアンと遭遇するのが怖くなった。