2013年4月3日水曜日

『ゼロ・ダーク・サーティ』(Zero Dark Thirty) 女・男社会・働き者

この映画の政治的軍事的な側面についてはとっくに語りまくられていていまさらだ。
私は「無知は罪だというのはわかっちゃいるが、でもなんでもかんでも知った方がいいってわけでもないわな」という気分になった、って程度でやめておく。

そういうこととは別に、私が強烈にイメージに残ったのは、主人公マヤの髪なんである。
映画の冒頭ではふわふわ巻き巻き編み編みと、不器用な私にはどう作るのかもわからない髪型で彼女は登場する。
中東のど真ん中に、えらく可愛らしく登場する彼女は、砂まみれのオフィスも気に入らず、先進国の快適さが皆無の世界に不満である。
ただし、マヤには拷問にひるまないガッツがあったのだが。
マヤの髪型は、物語が進むにつれて変化する。
こった髪型は消え、一つにひっくくるだけになる。
いつの間にか巻髪はストレートに。
ひっくくる髪はだんだんほつれていく。
最後は髪も結ばず、洗いざらしのような髪が砂交じりの風になぶられていく。
その彼女の姿には、映画冒頭のマヤはいない。
たくましく、ゆるぎない姿には、男たちですら、信頼を寄せる。

女性が、男性の多い職場で働き、実力を発揮するのは難しい。
どこかで彼女のようにぶつかり、かみつく日はやってくる。
ファッション雑誌のように、美しく、笑顔を絶やさず仕事をしている女性は、本当は少ない。
少なくとも、男性に伍して働く女性には。
(そういう手合いの女性の笑顔は、たいていは戦略的なものだ)

表情がこわばり、すさんでいくマヤの姿に、自分を重ねた働く女性は多いのではないだろうか。
ビグロー監督も、働く女性だ。
明らかに政治的な面で語られるだろう映画の中に、彼女は男性社会で働く女性の苦悩を、言葉にすることなく描いている。
そこに、感情移入の難しいテーマをもつこの作品に、心を寄せやすい隙がある。

最後の涙の解釈はいろいろだ。
あれは、ひとつの感情だけで流した涙ではない。
いろいろな感情が混じった涙だ。
ビン・ラディンの殺害、拷問、テロ、仲間の死・・・そのすべての意義を問い直すこと。
それらと比べれば小さいことなのだろうけど、でも涙の中のいくつもの感情のひとつには、われわれ働く女性たち全員が、一度は流した涙が混ざっているはずだ。
われわれ女は、なんて遠くに来てしまったのだろうと。


↑中盤。まだ巻き髪に可愛らしさあり。


↑クライマックス。もはや愛らしさはゼロ・ダーク・・・

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