2011年10月31日月曜日

『モールス(Let me in)』 純愛の行き着く先

この映画をホラー、スリラーと呼ぶには抵抗を感じる。確かに恐怖の描写はある。謎めいた雰囲気も漂う。実際、観客には明かされない謎も多くある。
内向的な主人公オーウェンが出会う、謎めいた少女アビー、そしてその父親。設定は、さほど目新しくはない。終わり方も、似たものはいくらでもあるだろう。
だが少年少女の純愛の香りが漂うことによる切なさと、父親の正体とオーウェンが重なるがゆえのやるせなさは、この映画独特のものだ。原作『MORSE』も、その映画化である『ぼくのエリ 200歳の少女』にすら、その2つは存在しない。
特に「父親」の正体は、オーウェンとアビーの純愛の、やがて行きつく結末を突きつけられたようで悲しみは深い。病室での、父親とアビーの最後のシーンから、私はこの映画が単なるホラーには思えなくなってしまった。
純愛ものといえば、その代表として『ロミオとジュリエット』がある。添い遂げられるはずのない2人がそれでもなお共にあろうとして、結局は死を迎える物語だ。
この『モールス』では、愛し合う二人の結末はすでに「父親」を通して劇中に暗示されている。それゆえに、エンディングは結末に向けての出発点なのだ。
われわれは、オーウェンとアビーの結末を知っている。少なくとも、こうなるのでは、という危惧を抱いている。
それなのにエンディングでのオーウェンの顔には、その幼さゆえにか、いまアビーと共にある幸せと自立したことへの喜びが漂う。
彼はまだ、自分の未来に起こるであろう結末を、少なくとも自分のこととして感じてはいない。彼は昇ってくる朝日を微笑みながら見つめ、アビーと語る。彼らは幸福に満ちている。
そしてこの時、観客とオーウェンとの間にあったはずの「共感」は決定的に失われる。
車窓から見える朝日がなぜか落日にもみえるのは、観客である我々だけなのだ。

2011年10月29日土曜日

『テンペスト (The Tempest) 』 性の逆転によって本当に赦しのテーマは強調されたのか?

まったく期待通りの作品かといえばそうではない。正直、ジュリー・テイモアによるシェイクスピア作品の映画化、ということで、勝手に『タイタス』のような作りこんだ映像世界を期待していたので、その意味では完全に肩すかしとなった。あれほど自然を織り込んだ世界を撮っているとは想像していなかったのだ。
だから、この映画から私が感じた魅力は映像ではなかったのだ。最高の演出は、主人公を公爵から「公爵夫人プロスペラ」にしてしまったこと、性の逆転である。
「テンペスト」という作品に内包される「赦し」というテーマが、母性を加えることでより引き立つとテイモア監督は考えたらしい。しかし、私には母性よりもむしろ、プロスペラとその周辺に群がる、人間でない存在達との間に醸し出される、セクシャルな香りの方を強く感じるのだ。

ヘレン・ミレンは『RED』で、白いドレスの深いスリットから美脚をのぞかせ、お色気たっぷりの美マダムぶりを発揮していたが、『テンペスト』では露出がない分、ふとみせる表情に性を感じる。
彼女が使役する妖精エアリアル、怪物キャリバン、彼らは本当にプロスペラの魔術によって縛り付けられているのだろうか。彼女を恐れているのだろうか。
私には、彼女自身に惑溺しているようにしか見えない。
娘とともに生き残り、復讐の想いをたぎらせ、それでいてなお高貴さを失わない。そんな魔女にさげすまれ使役されて、怒りや憎しみを覚えることが、一種の昏い悦びだったではないだろうか。
自由になったエアリアル、島を取り戻したキャリバンが、決して幸せそうには見えなったのは、私の思い込みだろうか。
同時に、彼らに見つめられるプロスペラには、若い取り巻きに対する、年経た女の征服欲がにじむ。エアリアルに耳元でささやかれ、彼女は何も感じなかっただろうか。娘のところに夜這いに来たキャリバンに対して、何がしかの嫉妬は感じなかっただろうか。

『テンペスト』は赦しの物語であるという。だが私は最後までプロスペラに寛容な心を感じなかった。男たちへの赦しは、母性よりも女王の風格をもって行われたのだから。
そしてエアリアルも、キャリバンも、ついには彼女に捨てられるのだ。解き放たれたエアリアルの表情には寂しさがただよい、去っていくプロスペラを見送るキャリバンにも喜びはない。キャリバンと見つめ合い、そして去っていくプロスペラの顔にさえ、目的を果たした高揚感は感じなった。
彼女は自分にかしずく存在を捨ててまで、人間世界の地位を取り戻したかったのか。それこそが母性というものなのか。
プロスペラが母でなかったら、彼女は島からでなかっただろう。少なくとも、私がもし彼女なら。