2013年4月25日木曜日

『テッド』(ted) 映画に初めて「自分」を感じた瞬間

この映画のテレビCMを見たとき、実はかなり疑ってかかっていた。
相方がクマだってだけで、ようは、グダグダな男たちの下品な話なんだろうと。
でも知人が「ぜったい、sinokはみろ」と言う。
その勧めと、町山さんが翻訳監修、主演がマーク・ウォールバーグ(結構好き)、この三つが揃わなければ、多分私は見なかった。

さんざんテレビや劇場で流れていたCMは、『テッド』の一番重要な部分をごっそりそぎ落としている。
ダメ中年とぬいぐるみの、痛烈ギャグ映画、では、ない。
これは「オタク」の物語なんであって『宇宙人ポール』あたりとおんなじなのだ!!


観て、冒頭10分と経っていなかっただろう。
長年映画を観てきて初めて感じた。

これは私と同じ奴の話なんだ!!
だって!
子供たちがもらったクリスマスプレゼントの中に(一瞬)、

スター・ウォーズのフィギュアが見えたんだもん!

もうこの時点で、私はおちた。

そして、エピソード1公開時に主人公ジョンとテッドがダース・モールとヨーダのコスプレをしてるシーン(一瞬)がでてきて

自分がもっと人目を気にしない人間であったなら!!

と、当時の痛い悔恨が甦る事態に至っては、もう完全移入を通りこしてすでに私は映画に同化していたのである。

しょーがないでしょ。

私、人生初体験の劇場映画が『スター・ウォーズ』なんだから!


ここで彼らの神・フラッシュ・ゴードンにも同調していたらもはや現実と映画の区別がつかなくなっていたところだが、残念ながらフラッシュ・コードンに愛はない(知ってる自分が怖いが)。
でも、B級映画のヒーローのせいで後々までの趣味嗜好が決定してしまう、あの抗いがたい感情はわかる。
私だって、ドルフ・ラングレン(『レッド・スコルピオン』大好き)かジャン=クロード・ヴァン・ダム(『サイボーグ』最高)が友達の家にきてる!なんて言われたら、いろんなものを放りだして会いに行く。
もし両方きてたら・・・・・・うひゃあ!!(『ユニソル』は最高の二乗)


私は、この映画のストーリーや大量の毒舌お下品ャグを楽しんだわけではなかった。
私はエロは◎だがスカ系は苦手だ。
でも、この映画は、私がもし男に生まれていたら、もし同種の友人がいたなら、もしファッションに興味をもつことがなかったら、もし・・・もし・・・を重ねていった先にきっとあったはずの、自分の物語だったのだ。

ああ、こんな人生、私も歩んでみたかった。


追記1:私も着メロを「帝国のテーマ」にしていたことがある

追記2:いま気づいたが、ほとんど『テッド』について書いてない。・・・ま、いっか

このマーク・ウォルバークのアホ面が好きだ
あ、シリアスな役も好きよ

2013年4月3日水曜日

『ゼロ・ダーク・サーティ』(Zero Dark Thirty) 女・男社会・働き者

この映画の政治的軍事的な側面についてはとっくに語りまくられていていまさらだ。
私は「無知は罪だというのはわかっちゃいるが、でもなんでもかんでも知った方がいいってわけでもないわな」という気分になった、って程度でやめておく。

そういうこととは別に、私が強烈にイメージに残ったのは、主人公マヤの髪なんである。
映画の冒頭ではふわふわ巻き巻き編み編みと、不器用な私にはどう作るのかもわからない髪型で彼女は登場する。
中東のど真ん中に、えらく可愛らしく登場する彼女は、砂まみれのオフィスも気に入らず、先進国の快適さが皆無の世界に不満である。
ただし、マヤには拷問にひるまないガッツがあったのだが。
マヤの髪型は、物語が進むにつれて変化する。
こった髪型は消え、一つにひっくくるだけになる。
いつの間にか巻髪はストレートに。
ひっくくる髪はだんだんほつれていく。
最後は髪も結ばず、洗いざらしのような髪が砂交じりの風になぶられていく。
その彼女の姿には、映画冒頭のマヤはいない。
たくましく、ゆるぎない姿には、男たちですら、信頼を寄せる。

女性が、男性の多い職場で働き、実力を発揮するのは難しい。
どこかで彼女のようにぶつかり、かみつく日はやってくる。
ファッション雑誌のように、美しく、笑顔を絶やさず仕事をしている女性は、本当は少ない。
少なくとも、男性に伍して働く女性には。
(そういう手合いの女性の笑顔は、たいていは戦略的なものだ)

表情がこわばり、すさんでいくマヤの姿に、自分を重ねた働く女性は多いのではないだろうか。
ビグロー監督も、働く女性だ。
明らかに政治的な面で語られるだろう映画の中に、彼女は男性社会で働く女性の苦悩を、言葉にすることなく描いている。
そこに、感情移入の難しいテーマをもつこの作品に、心を寄せやすい隙がある。

最後の涙の解釈はいろいろだ。
あれは、ひとつの感情だけで流した涙ではない。
いろいろな感情が混じった涙だ。
ビン・ラディンの殺害、拷問、テロ、仲間の死・・・そのすべての意義を問い直すこと。
それらと比べれば小さいことなのだろうけど、でも涙の中のいくつもの感情のひとつには、われわれ働く女性たち全員が、一度は流した涙が混ざっているはずだ。
われわれ女は、なんて遠くに来てしまったのだろうと。


↑中盤。まだ巻き髪に可愛らしさあり。


↑クライマックス。もはや愛らしさはゼロ・ダーク・・・

2013年3月21日木曜日

BON JOVI 『WHAT ABOUT NOW』 そう、まさに今

忙しさと苛立ちの最中にでたBON JOVIの新譜。最高。
いま、これを聴かないと会社に行けない。行けないぐらいのストレスの中、BON JOVIが「Because We can」と歌ってくれるから会社に行ける。
人生の応援歌がBON JOVIの曲の特徴だけど、それは本当に力をともなう応援歌だ。
なんだろう、すごく陽性のブルース・スプリングスティーンみたいだ。

最高のアルバムなんだが、新鮮な曲だとか、名曲が入っているというわけではない。
いつかどこかで聞いたような歌詞、口ずさんだ様なメロディー。
でも、そんな歌詞とメロディーを、私はまさに「今」聞きたかった。

「今」を曲にすることに、BON JOVIほど長けたミュージシャンは多くない。
今を切り取っていけるからこそ、80年代HRバンドがビックなまま21世紀にも活躍している。

「Because We can」といって励ましてほしかった。
「I’m with you」といってそばにいてほしかった。
「What about now」と、叱咤してほしかった。。。。

そうそう、そうなんだよ。
どうしてBON JOVIにはわかるんだろう?
わたしたちが、いま、あなたたちにそう言って欲しいってことが。

ありがとう。
がんばれるよ。
Because We can!!


New Albumが全米NO1取りました。おめでとう、BON JOVI!!

2013年2月17日日曜日

 『ダイ・ハード ザ・ラスト・デイ A Good day to Die Hard』がんばりすぎる男に思う

この映画を観に行く前にヨガのレッスンに出てたんだが、先生が「(ヨガをしている時)息を吐くのが得意な人は人に任せるの得意で、吸うのが得意な人は自分でがんばるタイプ」という説がある、という話をしていた。
私の場合は吸う方が得意で、確かに一人でなんでもやっちまう。
で、映画を見ながら思ったのだ。

マクレーンも息を吸う方が得意な男に違いない。

マクレーンは確かに本人の主観でいえば運の悪い男なんだが、周囲の人間からすれば、むしろ彼の方が疫病神だ。
なぜって、劇場で見ている時はまあ盛り上がってるからうっかり忘れているが、後で、たとえば日曜洋画劇場あたりでのんびり観ている時なんかに「マクレーンが何もしなければもっと穏便にことが収まったんじゃないのか?」と気づいてしまうのだ。
トラブルが起こった時、マクレーン刑事は見過ごすことができない性分だ。職務上?いやいやそんな域は超えている。
今回だって、息子が心配でロシアに行っちゃうところまでは、まあ普通の親でもするだろう。
だが、息子のいる裁判所でテロらしきものが起こったからといって、息子が親父を無視してなにかヤマそうなことをしているからといって、人様の車を盗んだあげくに無関係なモスクワ市民の日常を破壊しまくって息子を追いかけるのは、もはや親だからでも刑事だからでもなく、彼の性分なんである。
しかも今回は他国にいるわけだから、国家権力に頼るという発想が生まれてきてもおかしくないはずなんだが(そもそも彼自身が国家権力のはずだ)・・・・・・。
←家族はいつも一番の被害者


まあ、確かに、ビルから飛び降りようとか、相手をぶんなぐろうとかって時に、息を吐いてことにおよぶ奴はいない。
アクション映画の主人公に、人任せな性格の人間がいたら話は成立せんしね。
とはいえ私はマクレーン刑事を見て思うのだ。
一人でなんでもやろうというのは、他人にいらぬ迷惑をかけるのだと(笑

とはいえそうそう、性格は変わらない。
傷だらけになっても無理を通し、周りを爆破する勢いで突き進むのなら、せめマクレーンのように自虐ネタで苦笑いしながら中指立ててがんばろう。
彼が無辜の市民に迷惑をかけるたび、なんだか勇気をもらうのだ(笑

Yippee ki-yay !!
  ↑でも最終的には親子でハタ迷惑。次回は娘も加えて三人で世界に迷惑をかけるのだろう

2013年2月11日月曜日

『レ・ミゼラブル Les Misérables』 映画にしかできないことがある

ゴールデングローブ賞で、作品賞、主演男優賞、助演女優賞を受賞。アカデミー賞も8部門ノミネート(2013.2.11現在)。でも一つ大切な賞がない。

絶対にトム・フーバーに監督賞(ノミネート)をあげるべきだよ!

気づけば邦画も洋画も、原作モノの映画化がてんこ盛り。小説はもちろんだが、マンガに舞台・ミュージカル・・・・・・そのうちヒットしたものはどれだけあるのか?
成功したか否かの差は、違う媒体の作品を、どう映画に翻訳できたかにかかっているのではないだろうか。
この『レ・ミゼラブル』。原作もミュージカルの舞台も、ケチをつける人は誰もいないだろう。名作中の名作だ。長大な原作を短くするのは難しいが、すでにミュージカルで実践済み。やろうと思えばそのまま舞台を映画化にもっていけばいいのだが・・・・・・。

オープニングからジャン・バルジャンが仮出獄許可証を破り捨てるまでで、これはもう舞台の映画化ではなく、見事に映画だと思った。
超低音で響く囚人の歌声にのせ、映画を見る前に思っていたイメージを遥かに超えるスケールの難破船に、それを引き上げる囚人たち。ズームアップで見せるジャン・バルジャンの顔。
←歌声がなきゃヒュー・ジャックマンと分からん

逆にズームアップでジャン・バルジャンが自らの苦悩を歌い、仮出獄許可証を破り捨てたところでカメラが空高く登っていく。

役者たちの歌を撮影現場で生でとったというアイディアも見事だし、それに応えた俳優陣ももちろん見事だが、歌う役者たちの顔をズームで映し、名曲の高揚を上昇するカメラで表現することこそ、絶対に舞台ではできない演出。
舞台をそのまま映画にしたのではなく、どうすれば映画作品としての『レ・ミゼラブル』を撮るのかを考え抜いたトム・フーバー監督こそ素晴らしい。
作品賞でたたえてもいいのだけれど、元が素晴らしいのが分かりきってるのだから、監督の力量を一番褒めてほしいなあ。

革命も、民衆の英雄としてのジャン・バルジャンも、本当に胸に迫ったかと言われれば違うだろう。
でも、高揚した。泣いた。
よく知らない文化や歴史を、頭ではなくただ感情を震わせることで伝えてくれた。
ひさびさに、洋画の力を感じたなあ。

でも実は、一番私の胸をついたのは、ジャベール警部だったんだよね(ラッセル・クロウはもっとほめられていいと思う)。
少々違うけど、『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』みたいに、ジャベール警部に焦点をあてた描き方も面白そうだ。だれか作ってくれないかしらん。








←信念と信仰が揺らいだ時の彼が素晴らしい

2013年2月3日日曜日

sinokの意味

長いこと放置していたが、ぼちぼち書きたくなってきたなあ・・・ということで、ブログ再開に向けて、ふとやってみたことがある。

・・・「sinok」ってどういう意味?

長いことネット上で「sinok」という名前を使っているが、これは自分の本名がもとになっている。
なのであまり意味も、いや読み方すら考えてなくて、うっかりリアルでネット上の人に会ったりすると「名前は何て読むんですか?」と聞かれたりしていた。

で、調べてみたら・・・

sinok = しゃっくり in タガログ語(笑

しかし、sinokをネット上で検索すると、「しゃっくり」よりもっと多く出てくるものがある。



おわかりだろうか?
さすがに私もしばらく思い出せなったが、懐かしや「グーニーズ」の悪玉家族の末弟である。
でも、あれ?と思い人もいるだろう。
そうなんです、フラッテリー家の末弟は「スロース(sloth)」だったはず。。
はい、では動画の音声を良くお聞きくださいませ。
・・・英語ではなく、フランス語の吹替なのだ。
どうやらフランスでは、「sloth」は「sinok」になってるのだ、なぜなのか不明だけど。
「sloth」は英語で「なまけもの」という意味があるが、フランス語にそういう意味はなくて、あれこれがんばったけど、出てくるのは「しゃっくり inタガログ語」ばかり(笑)

なにやら微妙な結果ではあるのだけれど、「グーニーズ」は子供時代の私にとってはお気に入りの映画であったし、グーニーズの「sinok」が三兄弟の末っ子なら、私のリアル生活も三姉妹の末っ子。
妙に親近感を覚えてしまった(笑)

ちなみに音は「シノーク」だった。

というわけで、私は「sinok(シノーク)」です、とやっと音でも名乗れるようになったところで、ぼつぼつまたブログをやっていこうと思う。





2011年12月21日水曜日

『ハンナ(HANNA)』王子不在のお伽話

主人公も、主人公の敵も、主人公を助けるのも、女。
出てくる男たちはことごとく彼女たちにぶちのめされ殺される。
最後は女と女の一騎打ちである。
物語は、グリム童話を想起させるアイテムがちりばめられ、さらには設定の荒唐無稽さもあって、まるでおとぎ話のようだ。残酷で、笑えて、考えさせられ、そして主役ハンナを演じるシアーシャ・ローナンが非現実的なほど美しい。敵役マリッサを演じるケイト・ブランシェットは、だからもちろん、魔女である。

マリッサの魔女ぶりは徹底している。
美しさに固執し、おそらく同じくらい若さにも執着がある。鏡で顔をチェックし、歯を磨き、服や靴を入念に選ぶ。むろん、ブランドものに決まっている。
そのくせ「子供を産んだことがない」からわからるまいと、主人公の祖母になじられ逆上する。
マリッサはハンナの母にも死の間際に「あの子はつかまらない」と吐き捨てられた過去がある。
マリッサは「白雪姫」の継母なのだ。
彼女は子を産まない母。子を産んだ母たちから、彼女は見下される。それが彼女の中にくすぶる怒りといら立ちの根源だ。
であれば、ハンナは白雪姫のようなものか?
でも彼女を助け出す王子様は劇中遂に現れない。彼女の父親は猟師と7人の小人を合わせたような存在だが、【王子】という白雪姫復活のための重要な要素がないために、白雪姫は自らが主体性をもって敵に対峙しなければならない。
グリム童話の「白雪姫」では、王子と白雪姫の結婚式で、継母は焼けた鉄の靴を履かされて死ぬまで踊らされるが、ハンナには王子もおらず、結婚式というセレモニーもない。
決着は、自らの手でつけるしかない。ハンナは白雪姫と違って、自らの手を汚すのだ。

この映画の中の、シアーシャ・ローナンとケイト・ブランシェットは、どこか似ている。
透き通るような白い肌。相手を射抜くような強さのある視線。
ハンナが老獪さを身につけたら、マリッサのようになるのだろうか。

ちなみに、グリム童話の初版本では、白雪姫を陥れるのは、継母ではなく実母である。