2013年2月17日日曜日

 『ダイ・ハード ザ・ラスト・デイ A Good day to Die Hard』がんばりすぎる男に思う

この映画を観に行く前にヨガのレッスンに出てたんだが、先生が「(ヨガをしている時)息を吐くのが得意な人は人に任せるの得意で、吸うのが得意な人は自分でがんばるタイプ」という説がある、という話をしていた。
私の場合は吸う方が得意で、確かに一人でなんでもやっちまう。
で、映画を見ながら思ったのだ。

マクレーンも息を吸う方が得意な男に違いない。

マクレーンは確かに本人の主観でいえば運の悪い男なんだが、周囲の人間からすれば、むしろ彼の方が疫病神だ。
なぜって、劇場で見ている時はまあ盛り上がってるからうっかり忘れているが、後で、たとえば日曜洋画劇場あたりでのんびり観ている時なんかに「マクレーンが何もしなければもっと穏便にことが収まったんじゃないのか?」と気づいてしまうのだ。
トラブルが起こった時、マクレーン刑事は見過ごすことができない性分だ。職務上?いやいやそんな域は超えている。
今回だって、息子が心配でロシアに行っちゃうところまでは、まあ普通の親でもするだろう。
だが、息子のいる裁判所でテロらしきものが起こったからといって、息子が親父を無視してなにかヤマそうなことをしているからといって、人様の車を盗んだあげくに無関係なモスクワ市民の日常を破壊しまくって息子を追いかけるのは、もはや親だからでも刑事だからでもなく、彼の性分なんである。
しかも今回は他国にいるわけだから、国家権力に頼るという発想が生まれてきてもおかしくないはずなんだが(そもそも彼自身が国家権力のはずだ)・・・・・・。
←家族はいつも一番の被害者


まあ、確かに、ビルから飛び降りようとか、相手をぶんなぐろうとかって時に、息を吐いてことにおよぶ奴はいない。
アクション映画の主人公に、人任せな性格の人間がいたら話は成立せんしね。
とはいえ私はマクレーン刑事を見て思うのだ。
一人でなんでもやろうというのは、他人にいらぬ迷惑をかけるのだと(笑

とはいえそうそう、性格は変わらない。
傷だらけになっても無理を通し、周りを爆破する勢いで突き進むのなら、せめマクレーンのように自虐ネタで苦笑いしながら中指立ててがんばろう。
彼が無辜の市民に迷惑をかけるたび、なんだか勇気をもらうのだ(笑

Yippee ki-yay !!
  ↑でも最終的には親子でハタ迷惑。次回は娘も加えて三人で世界に迷惑をかけるのだろう

2013年2月11日月曜日

『レ・ミゼラブル Les Misérables』 映画にしかできないことがある

ゴールデングローブ賞で、作品賞、主演男優賞、助演女優賞を受賞。アカデミー賞も8部門ノミネート(2013.2.11現在)。でも一つ大切な賞がない。

絶対にトム・フーバーに監督賞(ノミネート)をあげるべきだよ!

気づけば邦画も洋画も、原作モノの映画化がてんこ盛り。小説はもちろんだが、マンガに舞台・ミュージカル・・・・・・そのうちヒットしたものはどれだけあるのか?
成功したか否かの差は、違う媒体の作品を、どう映画に翻訳できたかにかかっているのではないだろうか。
この『レ・ミゼラブル』。原作もミュージカルの舞台も、ケチをつける人は誰もいないだろう。名作中の名作だ。長大な原作を短くするのは難しいが、すでにミュージカルで実践済み。やろうと思えばそのまま舞台を映画化にもっていけばいいのだが・・・・・・。

オープニングからジャン・バルジャンが仮出獄許可証を破り捨てるまでで、これはもう舞台の映画化ではなく、見事に映画だと思った。
超低音で響く囚人の歌声にのせ、映画を見る前に思っていたイメージを遥かに超えるスケールの難破船に、それを引き上げる囚人たち。ズームアップで見せるジャン・バルジャンの顔。
←歌声がなきゃヒュー・ジャックマンと分からん

逆にズームアップでジャン・バルジャンが自らの苦悩を歌い、仮出獄許可証を破り捨てたところでカメラが空高く登っていく。

役者たちの歌を撮影現場で生でとったというアイディアも見事だし、それに応えた俳優陣ももちろん見事だが、歌う役者たちの顔をズームで映し、名曲の高揚を上昇するカメラで表現することこそ、絶対に舞台ではできない演出。
舞台をそのまま映画にしたのではなく、どうすれば映画作品としての『レ・ミゼラブル』を撮るのかを考え抜いたトム・フーバー監督こそ素晴らしい。
作品賞でたたえてもいいのだけれど、元が素晴らしいのが分かりきってるのだから、監督の力量を一番褒めてほしいなあ。

革命も、民衆の英雄としてのジャン・バルジャンも、本当に胸に迫ったかと言われれば違うだろう。
でも、高揚した。泣いた。
よく知らない文化や歴史を、頭ではなくただ感情を震わせることで伝えてくれた。
ひさびさに、洋画の力を感じたなあ。

でも実は、一番私の胸をついたのは、ジャベール警部だったんだよね(ラッセル・クロウはもっとほめられていいと思う)。
少々違うけど、『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』みたいに、ジャベール警部に焦点をあてた描き方も面白そうだ。だれか作ってくれないかしらん。








←信念と信仰が揺らいだ時の彼が素晴らしい

2013年2月3日日曜日

sinokの意味

長いこと放置していたが、ぼちぼち書きたくなってきたなあ・・・ということで、ブログ再開に向けて、ふとやってみたことがある。

・・・「sinok」ってどういう意味?

長いことネット上で「sinok」という名前を使っているが、これは自分の本名がもとになっている。
なのであまり意味も、いや読み方すら考えてなくて、うっかりリアルでネット上の人に会ったりすると「名前は何て読むんですか?」と聞かれたりしていた。

で、調べてみたら・・・

sinok = しゃっくり in タガログ語(笑

しかし、sinokをネット上で検索すると、「しゃっくり」よりもっと多く出てくるものがある。



おわかりだろうか?
さすがに私もしばらく思い出せなったが、懐かしや「グーニーズ」の悪玉家族の末弟である。
でも、あれ?と思い人もいるだろう。
そうなんです、フラッテリー家の末弟は「スロース(sloth)」だったはず。。
はい、では動画の音声を良くお聞きくださいませ。
・・・英語ではなく、フランス語の吹替なのだ。
どうやらフランスでは、「sloth」は「sinok」になってるのだ、なぜなのか不明だけど。
「sloth」は英語で「なまけもの」という意味があるが、フランス語にそういう意味はなくて、あれこれがんばったけど、出てくるのは「しゃっくり inタガログ語」ばかり(笑)

なにやら微妙な結果ではあるのだけれど、「グーニーズ」は子供時代の私にとってはお気に入りの映画であったし、グーニーズの「sinok」が三兄弟の末っ子なら、私のリアル生活も三姉妹の末っ子。
妙に親近感を覚えてしまった(笑)

ちなみに音は「シノーク」だった。

というわけで、私は「sinok(シノーク)」です、とやっと音でも名乗れるようになったところで、ぼつぼつまたブログをやっていこうと思う。





2011年12月21日水曜日

『ハンナ(HANNA)』王子不在のお伽話

主人公も、主人公の敵も、主人公を助けるのも、女。
出てくる男たちはことごとく彼女たちにぶちのめされ殺される。
最後は女と女の一騎打ちである。
物語は、グリム童話を想起させるアイテムがちりばめられ、さらには設定の荒唐無稽さもあって、まるでおとぎ話のようだ。残酷で、笑えて、考えさせられ、そして主役ハンナを演じるシアーシャ・ローナンが非現実的なほど美しい。敵役マリッサを演じるケイト・ブランシェットは、だからもちろん、魔女である。

マリッサの魔女ぶりは徹底している。
美しさに固執し、おそらく同じくらい若さにも執着がある。鏡で顔をチェックし、歯を磨き、服や靴を入念に選ぶ。むろん、ブランドものに決まっている。
そのくせ「子供を産んだことがない」からわからるまいと、主人公の祖母になじられ逆上する。
マリッサはハンナの母にも死の間際に「あの子はつかまらない」と吐き捨てられた過去がある。
マリッサは「白雪姫」の継母なのだ。
彼女は子を産まない母。子を産んだ母たちから、彼女は見下される。それが彼女の中にくすぶる怒りといら立ちの根源だ。
であれば、ハンナは白雪姫のようなものか?
でも彼女を助け出す王子様は劇中遂に現れない。彼女の父親は猟師と7人の小人を合わせたような存在だが、【王子】という白雪姫復活のための重要な要素がないために、白雪姫は自らが主体性をもって敵に対峙しなければならない。
グリム童話の「白雪姫」では、王子と白雪姫の結婚式で、継母は焼けた鉄の靴を履かされて死ぬまで踊らされるが、ハンナには王子もおらず、結婚式というセレモニーもない。
決着は、自らの手でつけるしかない。ハンナは白雪姫と違って、自らの手を汚すのだ。

この映画の中の、シアーシャ・ローナンとケイト・ブランシェットは、どこか似ている。
透き通るような白い肌。相手を射抜くような強さのある視線。
ハンナが老獪さを身につけたら、マリッサのようになるのだろうか。

ちなみに、グリム童話の初版本では、白雪姫を陥れるのは、継母ではなく実母である。



2011年12月3日土曜日

エリック・クラプトン&スティーブ・ウィンウッドに行ってきた(2011.11.26 in Hiroshima)

エアロスミスはいままで観たことないものを観た!と思った。
エリック・クラプトンは、聴いたことのないものを聴いた!と思った。
だからだろうか、エアロスミスの時のように、コンサート後すぐにブログに書く気になれなかったのは。音を文字で表現することくらい難しいものもない。

前日聴いたエアロスミスのギターだってすごい。
だけどそれは、音だけではなくて、眼で見せる要素も強い。あれは音だけ黙って聴くものではない。ステージでのパフォーマンスも彼らの音楽の重要な要素だ。
エリック・クラプトンは、彼のギターの音は、クラプトンにギターを弾くこと以外のパフォーマンスを要求しない。必要がない。
実を言えば歌さえ不要な気がした。歌は、スティーブ・ウィンウッドでいい。
ギターが。ギターが、ギターが。

それ以上、私に言えることは何もない。

2011年11月25日金曜日

エアロスミスを観に行ってきた(2011.11.25 in Hiroshima)

確かに、エアロスミスは、ボン・ジョヴィよりカッコイイ。
音楽界における我が最愛のスターはボン・ジョヴィ(そしてそのフロントマンであるジョン)だが、彼らが自分たちで言ってたとおりだ。
音楽、演出、何もかも。
でも、ライブが終わって思い返せば、かっこいいより「美しい」と言った方が正しい。
ああ、美しさを感じたロック・バンドなんて、はじめてだ。


でも、スティーヴン・タイラーは、美男子ではない。メンバーも、美形とはいえない。
スティーヴンは皺くちゃの河童のような顔に、キンキラキンの服を着て、嗄れ声と裏声で歌い、くにゃくにゃと踊る下品で怪しいオッサン(ジーサン?)である。
それなのに、ステージで歌い踊る彼は美しかった。エレガントだった。
あのカタチに入っている魂が「スティーヴン・タイラー」でなかったら、あの美しさは生まれないだろう。「スティーヴン・タイラー」だからこそ、その魂の輝きがカタチを超越してしまう。
テレビでは観たことのあるエアロスミスだが、ちょっとスティーヴンの容姿は苦手だった。
でもホンモノを観てしまったら・・・・・・。
姿形など、まったくただのイレモノだ。
放出される魂の輝きの前に、カタチなど無意味である。陳腐な言い方をすれば、あれこそがスターのオーラなのだろう。



私は音楽ファンではなく、単なる音楽好きでしかないので、音楽に関しては何も言えない。
だが、音楽を超えたところで、演者のもつ魅力はわかるつもりだ。

スティーヴン・タイラーはMCで、私たちに向かって「beautiful」と言った。
ジョン・ボン・ジョヴィはよく「friendship」という言葉を使う。
そこに、バンドの魅力、スタイルの違いを感じる。
エアロスミスとボン・ジョヴィに限らず、大スターのもつ魅力はそれぞれ違うが、共通していることは、その魅力が圧倒的なものだということだ。
カタチを吹き飛ばすほどの魅力、輝き。
これを感じられるのは、やはりライブに勝るものはない。


『THIS IS IT』を観たとき、マイケル・ジャクソンのライブに行っておけばよかったと思った。
クィーンのライブDVDを観るたびに、自分がもう少し早く生まれてきてたらなあと思う。

スターだって、死んじゃったら、もう会えないんだよ。

だから、明日はエリック・クラプトンのライブに行ってきます。

2011年11月9日水曜日

『世界侵略:ロサンゼルス決戦(World Invasion:Battle Los Amgeles)』 エイリアンがマクガフィンになる日

SFを観に行ったつもりだった。エイリアン対人間を観に行ったつもりだった。昔から、未知の生物に対しスーパー兵器ではなく、現実の兵器や手持ちのものを利用して闘うというシュチェーションが大好きだったからだ。
しかしこの映画ではそのシュチェーションはさらに進化し、リアルで、明日にでも世界に起こりうる出来事のように描いている。映像も、物語も、である。
エイリアンの正体や目的などの謎解きについては重きをおいていない。これは『スカイライン-征服-』も同じなのだが、『スカイライン』は主人公カップルの身に起きた出来事にはSF要素が強かった。これが『世界侵略』では皆無に等しい。とにかくリアルなんである。
リアルさを強調したいのか俳優もずいぶんとリアルで、派手さのない演技派アーロン・エッカートが主演。本当に海兵隊にいそうだ。女優は、もはや「アクション女優」とカッコつきで呼んだ方がいいミシェル・ロドリゲス。メインキャストとしてクレジットされていないその他の海兵隊員を演じる俳優も、他の戦争映画か軍の出てくる海外ドラマで観たような記憶があり、とはいえ目立つ容姿ではない。本当に、ミシェル・ロドリゲス以外は華がなく、そこらにいそうな役者ばかりで、『スカイライン』とはまた違った地味な布陣である。

そもそも、この映画にエイリアンは不要である。
エイリアンの代わりにものすごく強力な正体不明の敵が出てきても同じことであって、それが宇宙から来るのか同じ人類なのかというだけの違いでしかない。
エイリアンは単なるマクガフィンであり、この映画は、強大な敵を前にどう戦うか、というシンプルで根本的で、実にミリタリーな思考でできあがっている。
だから、もし本当にエイリアンが地球に侵略してきたとしたら、この映画のように、我々の出来うる範囲で闘うしかないのだろう。
夢も希望もスーパー兵器もなく、これがリアルなのだと思うと、少しエイリアンと遭遇するのが怖くなった。