2013年12月25日水曜日

『REDリターンズ』(RED2) そして次世代へと続く道

チケットを買うため自動発券機の前に並んでいたら、隣の発券機で中学生くらいの男子がチケットを買っていた。
発券機でもたもたしている家族連れやカップルが多い中、さすが子供は機械の扱いを覚えるのが早いなあと思って見ていたら、少年が購入しているチケットのタイトルが見えた。

 RED リターンズ

少年に連れはなく、ひとり。発券機の手慣れた操作は、少年がよく映画館に来ていることを示していた。

前作最年長だったモーガン・フリーマンがいないとはいえ、登場人物の平均年齢が60歳近い映画である。観客の平均年齢も40歳半ばといったところだ。
むろん、家族連れはいた。
でも中学生男子が一人で観に来たりはしていない。
この映画は続編だから、彼は前作を見ているはずだ。
『RED』が面白いといった中学生は1人しか知らない(そもそも中学生の知り合いはほとんどいないが)。

それにしてもREDシリーズはヘレン・ミレンの映画だ。
はげ二人もハンニバル二人も、ヘレン・ミレンのエレガンスには敵わない。
セルフ・パロディでエリザベス女王まで披露した彼女は無敵である。
加齢臭などありえない。

↑このコート欲しい・・・

そんな彼女の魅力に、あの中学生は気づいただろうか。
かっこいいおばあちゃんでしかないだろうか?
いや、少年にはわかるはずだ。

イ・ヴォンホンの裸もいつか衰える。
少年が私の歳になるころ、少年のための『RED』が作られるかもしれない。
その時イ・ヴォンホンが出ていれば、彼は感がい深くこの日を思い出すだろう。
私がブルース・ウィリスに、まだ髪があったころをしみじみと思い出すように。

↑誰だって一度は若き日があったのだ

2013年12月5日木曜日

BON JOVI 日本99&100回公演に行ってきた

12歳だ。Livin' on a Prayerを聞いて、BON JOVIのファンになったのは。
姉たちが洋楽ばかり聴いていたこともあって、それまではMADONNAとThe POLICEが好きだったんだが(それはそれでオカシイ小学生だ)、Livin' on a Prayerで、やられた。
お小遣いでSlippery When Wet(この時はテープ)で買い、New Jerseyの時には親がデッキをかってくれたのでCDを買い・・・・・・今に至る。
ただし、ライブデビューは大学生、福岡ドームでのCross Road Tourから。
それからは福岡でのライブは全部参加、ツアーが大阪どまりになってからはお金の余裕もでてきたので大阪や東京に参戦するようになった。
それでも、大阪⇒東京と、2公演梯子したのは今回が初めてだ。


多分、今回の公演は賛否両論あるんだろう。
リッチーはいないし、ジョンの体調は最悪だし(特に大阪)、セットは地味だったし(ただし私はあまりセットに興味がないので別に構わんが)、金返せという人がいても驚かない。
その理屈でいえば、私なんぞ、チケット代に交通費(福岡⇒大阪⇒東京⇒福岡)に宿泊費にグッズ代の合計金額を思うと、ブーイングのひとつやふたつしたっていいのかもしれない。
でも、いまの自分は、最高潮に満ち足りている。
なぜなら、BON JOVIのライブに一番求めているものは、ちゃんとそこにあったから。

ジョンがMCで言っていたけれど、Friendship なのだ、彼らのライブに感じるのは。
不思議なことだし、ファンの錯覚・妄想だと言われても否定しない。
ライブでの私たちとBON JOVIの間にあるのは、驚くほど近しく親しい感情だ。
相手は、世界的ロック・バンドなのにね。

ライブ後、否定的な書き込みをみた。
「日本のファンは(出来の悪さに対して)優しすぎる」(おっしゃるとおり)
「歌詞も覚えてない日本人相手に100回もライブするくらいなら俺の国でやれ、日本のライブは退屈だ!」
("People in Japan seems to be frozen!!"には爆笑した。否定できんし!(笑))

でもさ。
私たちと彼らの間にあるのは Friendship だから、そこには思いやりと励ましと支えあいがあって当たり前だし。
(大阪で、両手を合わせておじぎするジョンは「今日はゴメン、ありがとう」って感じだった)
日本人がおとなしくて言葉がわからないことなんか30年前から日本に来ている彼らは百も承知だし。
(インタビューでも、ジョンは「国によって(楽しみ方の)表現が違う」と言っている)

もちろん、ファンなんだから私たちはライブを楽しみに行くわけだ。
でも、同じくらい、私たちはBON JOVIに、ジョンに楽しんでもらいたい。
リッチー不在だからジョンの負担は大きくて、だからデイヴィッド(大阪での代役ソロには涙がでた)、ティコがんばれ!といつも以上に応援する。
少々不安だったリッチーの代役フィルXだけど、実際にみたら「おまえ結構イイ奴じゃん!」と仲良くなって(?)フィルXコールしてみたり。
そしてもちろん、ジョンの調子が悪くなると、私たちが歌って支える。
だって今までなんども彼らの歌に励まされてきたんだから。
すると苦しそうに歌っていたジョンが、嬉しそうにニコッと笑う。
その笑顔をみて私たちも笑顔になる。
私たちの笑顔で、またBON JOVIが笑顔になる。
そして感動したジョンが、目を潤ませる・・・。
ああ、気持ちが伝わった!と思う瞬間!

この交感があるかぎり、私はライブに行き続ける。
この交感があるかぎり、私はBON JOVIのファンであり続ける。
だって、friends なんだから!

↑こういう顔の時に「がんばれ!」と思う。そしてそのあと笑顔になってくれるのが幸せ

2013年10月20日日曜日

『そして父になる』男は大変だ

珍しく邦画を観にいった理由は、仕事がらみでタダ券をもらったから・・・でもあるんだが、雑誌「映画秘宝」でリリー・フランキーが「(『凶悪』より)先に『そして父になる』を観て」と言っていたから。
もともと『凶悪』は観る気満々で、これを書いている今はすでに観た後なんだが、結論からいえばどっちが先でもショックが大きいから一緒じゃないかと思う、と、リリーさんに伝えてあげたい(笑)

それはそれとして(笑)
実は主役の福山雅治の父親役に私は非常に懐疑的だった。
父親役ができない、と言うことじゃなくて、二枚目で陽性でかっこいい福山に、苦悩する父親ってできるのかなあと思ったのだ。
ところがそんな懸念がふっとんだ。
子供の取り違えを知り、福山が踏切で止まった車の中で、吐くようにしていう言葉に、尾野真知子同様ショックを受けた時、そこにいたのは福山雅治ではなく、当たり前のように血を優先させる父親「良多」だった。

是枝監督は、丁寧に丁寧に家族の姿を撮っていく一方、登場人物の内面を事細かに説明するようなセリフも演出もしない。
その代わり、良多の目に薄暗いものが陽炎のように立ち上っている。
薄暗いもの、と思うのは、映画前半での私は母親の心情に同調していて、良多にたいして激しく反感を覚えていたからだ。
でも終盤、彼が取り違えに関係した相手と会う場面で、心が一気に良多に傾いた。
良多は、彼の周囲で育まれている「血のつながりのない家族」の有り様に、打ち負かされる。一気に崩れ落ちていく。
崩れて、もう一度、「父親」をやり直そうとする。

↑この目を六年も育てた我が子にする・・・男親って男親って・・・

知人の男性(父親である)がこの映画を観たというのだが、前述の、私がショックをうけた良多の言葉を、覚えていなかった。尾野真知子がその言葉のことで良多を責めるシーンでやっと「そんなことをいってたなあ」と思ったそうだ。
たぶん、男性は、この映画で良多と同じ心の軌跡をたどるのだろう。
男とは、なんとまあ苦労の多い生き物なのか。
たしかにこれは、「父に<なる>」だ。
私は未婚で子供もないが、前半は尾野真知子の心情に同調してたと書いた。
だが良多が母親たちに打ち負かされたとき、私は良多に対して母性を感じて、少しだけ泣いた。
彼があまりに弱々しくて。
映画の終わり方も、良多がなにかの決断をしたわけではなく、父としての一歩を踏み出す決意が見えた、そんなところで終わっている。
もがく良多が、たまらなく愛しく思えた。

私がこの映画で泣いたのは、1シーンだけ。それも、目頭が熱くなった、という程度だ。
泣いてる暇はなかったのだ。しっかり見ていなければ、掬いとれないいろいろなものが画の中にあった。
一方で、私の周囲でこの映画を観た女性たちは、感想を「そんなに泣けなかった」の一言で終わらせた。
だがしかし、映画とは、「泣ける」かどうかで価値が決まるのか?




2013年8月25日日曜日

『パシフィック・リム』(Pacific Rim) 四の五の言わずに、観ろ

マジンガーZだっ!!!!!!
ライディーンだっ!!!!!!

映画が始まり冒頭10分もたたない内に、私は我を忘れて口走った。
もしあなたが子供時代、ロボットや怪獣に歓声を送ったことがあるのなら。
四の五の言わずに、とにかく観ろ!

私が我を忘れたのは、冒頭のイェーガーの出撃シーンでのことだ。
頭部(コックピット)がイェーガーと合体するところで『マジンガーZ』が。イェーガーが基地から出撃するとき岩肌(実際は鉄の扉だけど)が割れて出てくるところで『ライディーン』が(冷静に比較すると全然違うんだけど)、頭のなかでフラッシュバックした。
あの時、あなたと私がドリフトしていたら、幼いころの私が暗記していた『ライディーン』最終回のセリフを全部聞かされる羽目になっただろう(私の持てる暗記力のすべては『ライディーン』に使い果されたと信じている)。
二時間余の間、私の心は小学生だった。

幼いころから大学に上がるころまで続いた私のアニメ生活のほとんどは、男子向けアニメが中心だった。
リアルタイムで観たのはもちろんだが、東京に住んでいた小学生のころは、夕方にアニメの再放送枠があったので(『マジンガーZ』や『勇者ライディーン』などはこの再放送で観た)、そのおかげで5~6年くらい上の世代が観ていたアニメも大抵はみてきた。70年代・80年代の私は、戦うアニメにまみれた生活だったのだ。
そんな私がアニメを観なくなったのは、単純に、キャラクターの絵柄に幼さを強く感じるようになったから。昔は実年齢より大人っぽかく描かれてた気がするんだが・・・・・・。

←ブライト・ノアはこんな顔だけど19歳だぞ!

だから『パシフィック・リム』を観ていてものすごく安心できたのは、登場人物が明らかに大人だというところだ。
思わず20年ぶりぐらいに映画のノベライズを買ってしまったんだが、そこで確認すると一番若いマコだって二十歳は過ぎている計算になる。主人公のローリーは三十近い大人だし、彼がイェーガーに乗り始めた年齢だって、二十歳ぐらいだろう。
その一方で、イェーガーのパイロットはキメのポーズをしっかりやるし、パイロットがやるということはイェーガーのシステム上、当然ロボットもキメてくれるし、必殺技の時は叫んでくれるし(英語では「ロケット・エルボー」だった技が、日本語吹替版では「ロケット・パンチ」に変わっていた。最高だ!)、怪獣は肉感的で瞳が生きてて動きが思いっきり特撮調だし、飛ぶ怪獣は出ないのかなーと思っていたら飛ぶし、さすがに剣は出ないよなーと思っていたら出てくるし。ああたまらない。

そしてそのすべてを、デル・トロ監督は本気で作っている。

デル・トロ監督は、『ブレイド2』や『ヘル・ボーイ』の時に漠然と感じてはいたのだが、オタク愛と大人の成熟が両方備わっている理想的な監督だ。われわれ観客の子供心を刺激しつつ、ちゃんと大人扱いしているのだ。
私の本質はオタクだ。アクションや怪獣やメカが大好きだ。しかもデータ派ではなく本気で感情移入する性質のオタクだ。
でも、もう大人だから大人のキャラクターにしか共感できなくなってるし、作品の向こうに作り手が透けて見える程度には目も肥えた。小学生のころは高校生のひびき洸に恋したけれど、いまはアラフォーだからひと回り下のローリーぐらいが限界だ。製作費はなくとも「こんなの作ったんだ!ぜひ観てくれ!」と作り手の声が聞こえるような作品には感動するが、金欲しさに観客に媚びた映画は鼻につく。
だから、この感情移入が大得意な私でも、2時間どっぷり虚構の世界につかり、現実を完全に忘れられる映画は、最近ぐっと減ってしまった。
『パシフィック・リム』は、そんな数少ない映画なのだ。

・・・・・・

鑑賞一回目は、2D字幕版。これでも十分我を忘れて盛り上がったが、何せスクリーンが小さく迫力には欠けた。
ということで、2回目はIMAXシアターでの3D吹替版で鑑賞。3Dにこだわったんじゃなくて、とにかくいい映像といい音(私は機械音が好きなのだ)で聞きたかったからだが、これが大当たりだった。
3Dのおかげで重量感や大きさにもより迫力が加わったし、装甲や怪獣の皮膚などの細部まできれいに見えて感激だ。音に至っては手に持ったコーヒーのカップがビリビリ震えるほどの振動まできて、五感の内もうあと足りないのは嗅覚だけ、といった状態だった。
ああ、最高!
それに吹替ではクレジットもいらないような超有名声優がメインのキャラクターを演じているので、幸せだった。あえて言うなら、ロン・パールマンの声は谷口節氏が亡くなったから諦めるとして、ローリー役の杉田智和氏はヒーロー声ですごくカッコ良いいんだけど、あれだけベテラン陣を集めたんだし、いっそ井上和彦氏あたりをもってきてたら、私の理性は完全に吹き飛んだだろうに。(なぜそんなに理性を吹きばそうとするんだ、私は)

・・・・・・

さあ、いいかい?もう一度だけ言うよ?
四の五の言わずに、とにかく観ろ!


↑あああカッコイイ~~~~!!!!

『ワールド・ウォー・Z』 (World War Z) World War ”Zombie”

この映画の予告編について、知人と討論(?)になった。
予告編での、逃げまどう人々、異様な動きをする人間、そして人間がまるで津波のように襲いかかる映像。そしてタイトルは『ワールド・ウォーZ』。
そう、「Z」。だから・・・・・・

sinok:「Z」なんだから、これはZombie(ゾンビ)の映画なのよ!
知人:ゾンビだなんて宣伝してないし、「Z」がゾンビの頭文字なら、
    マジンガーZもゾンビだっていうのか?
sinok:マジンガーはマジンガーだからゾンビなわけないじゃない
    人間がうじゃうじゃと人を襲ってて「Z」だからゾンビなの!
知人:・・・・・・(絶句)

この映画がゾンビ映画だと隠して宣伝されていたことを知ったのは、映画が封切られる直前のことでした。
結構、ショックです。
宣伝の方法がひどいことじゃありません。普通は「Z」ときいて「ゾンビ」の頭文字だとは思わない、という事実にです。
『ウォーキング・オブ・デッド』にはまっている私は、「Z」とみると「ゾンビ?」と反応する脳になってしまっていたのです。もし本当にゾンビとは無関係な映画だったら、マヌケもいいとろろです。
それにこれでは、日本の間違った映画宣伝のありかたを批判することもできません。

レイティングを下げるためだというが、ゾンビ映画なのにゾンビに食われる怖さはゼロだし、ゾンビ自体をしっかり見せるシーンも少ない(昨今多い走るゾンビの場合は、たしかにゾンビがよく見えないのだけれど、捕食シーンや流血シーンはしっかりあるものだ)。
それでいて、怖い。
なぜなら、予告にもあったとおり、人間があり得ない動きをしながら奔流のように襲いかかってくるところなど、いままで観たことがないからだ。
やつらに何をされるのかわからなくても、なんだか怖い。いやもう、反射的に怖くて逃げたい。
ゾンビははっきり見えないのに、生理的な怖さはちゃんとあるところがすごい。

ゾンビだけではなく、ブラピ演じる主人公もいい。
この主人公、よく考えると、序盤と終盤以外ほとんどゾンビと闘っていない。
なぜなら彼には戦うスキルがないのだ。彼がもっているのは、元国連職員として身に付けたスキル。紛争や疫病の知識だ。
ただし、戦える者が自分しかいないとき、彼は戦うことを厭わない。勇敢で、責任感の強い人間だ。
彼は、はじめ、家族のために、世界を守る鍵を探しに旅にでる。そして、世界を守ろうとするブラピのために、世界中の人が立場を超えて彼に知恵と力を貸してくれた。そして大勢が命を落とす。
だからブラピは、家族を思いつつも、世界のために任務を果たそうとするのだ、命がけで。
マイ・ホーム・パパがヒーローになっていく過程で、火事場の馬鹿力を発揮するわけではなく、多くの人々に支えられているということが、なんだかとても新鮮で、でもすとんと腑に落ちた。
普通、ゾンビ物は生存者の心の暗部をえぐりだすものだが、逆に人の良い面を前面に出し、将来起こるかもしれないパンデミックや大規模災害にも、なんだか希望が見える物語になった。

ゾンビ映画なのに、ゾンビ物定番の描写も絶望した人間の醜悪さも描かず、でも、いままでのゾンビものになかった魅力が満載で、その魅力もまたゾンビと世界の終りが生み出したものだというこの不思議。
ブラピがこの映画を「洗練されている」と言っていたがまさにそうで、これまで後ろ暗い存在(?)だったゾンビが、とうとう太陽の下にさらされてしまった気分がする。
恥ずかしいような、ちょっと誇らしいような。
ぐちゃっとしたゾンビの造形は、私だって生理的には苦手だ。
だけどゾンビ映画の魅力は、造形の先にあるから、私はなんだかんだでゾンビを観てきた。
でもまだまだゾンビの魅力はこんなものじゃないんだと、ブラピが私に教えてくれたのだ。

くう~~。ブラピさま。ぜひ、続編お願いします。お蔵入りになったという噂の、ゾンビ大血戦inロシアを観たいです!!


↑ときどき自分が人様の足を引っ張ってしまう主人公。
これが嫁(アンジー)の方なら、無敵だったんだが(笑


『シリアル・ママ』(Serial Mom) 祝!DVD&BlueRay化!

大学生だったあの日。
お昼のワイドショーを見ていなかったら、私はこの映画の存在を知らないままだっただろう。
映画評論家のおすぎ氏が、困った顔をするアナウンサー(?)相手に熱弁をふるっていた。
「とにかくこの映画はすっごく面白いの!」
だから、私は観に行った。もう20年近く前のことだ。
そして、この映画を観に劇場へ行った、という事実のおかげで、会社で後輩から英雄のごとく崇められている今日この頃である(本当)。

ビバリーの魅力は、殺人そのものと同じくらい終盤の法廷劇にある。
シリアル・キラーと言えば去年の『悪の教典』を思い出すのだが、あの自己チュー殺人鬼のハスミンは犯行がばれて咄嗟に精神異常を装うという、引き出しの少なさを露呈したのに対し、彼女は堂々と無罪を主張するのだ。
それも、彼女は「私はあなたたちと同じだ」と言って、本当に無罪を勝ち取ってしまう。
ハスミンは人間の弱点をつくことはできるが、共感能力がまったくないため、人間性を理解しているとは言い難い。ビバリーは、家族を愛し生活を愛し社会を愛している。世間も社会も人間もよく知っている大人で・・・・・・ただ、共感できない相手をいたぶったり殺すことを厭わなくて、むしろそれを楽しんでいるだけのこと。
そして、無罪になったところで迎えるエンディングが素晴らしい。
シリアル・ママは、世間も社会も人間も知っていて、うまく立ち回る能力だってあるけれど、一瞬たりともそれらに委縮して自分を見失ったりはしないのだ。

それにしても、80年代を美人女優としてならしたキャスリーン・ターナーのこの雄姿は、あまりの衝撃とともに、この20年私の頭に焼きついて離れなかった。
再見して驚いたのは、自分がほとんどのシーンを覚えていたことだった。最近は昨日みた映画の内容だって忘れちゃうことがあるのにね。
当時のキャスリーン・ターナーの年齢とほぼ同じになったいま、またこの映画を観ることができて、これほど嬉しいことはない。
『シリアル・ママ』をDVD&BlueRay化した関係諸氏に、心からの感謝と敬意を表する次第であります。

↑映画史上、もっとも肉包丁の似合う女優

『終戦のエンペラー』(EMPEROR)  先の戦争をおもっての雑記

あの戦争やあの時代を描いた映画を必ずみるというわけではない。
でも観たら、考える。映画のことだけではなく、色んな事を。
今回は、その雑記にすぎないがご容赦いただきたい。

日本は、敗戦国としてものすごく幸運な国だった。
戦争を続ける力がもう残っていなかったこと。占領統治をアメリカが行ったこと。最高司令官が野心丸出しのマッカーサーだったこと。共産主義への警戒心が強かったこと。
でも映画の中で何度も語られていたとおり、天皇制が残ったことが、ずば抜けて大きい。
劇中フェラーズが話したとおり、昭和天皇が逮捕・処刑されていたら、復興は遠のいたに違いない。
戦争に負け、価値観がズタズタになった日本で、もし天皇まで否定されたら、玉音放送を聞いて文字通り「堪へ難きを堪ヘ忍び難きを忍び」降伏した人たちは、何をよすがに占領下を受け入れればよかったのだろう。

天皇制が残った影に、フェラーズという無名の男がいたという。
映画をみてパンフレットを読んで、家に帰ってからもいろいろ調べた。本も買おうかと思っている。
調べてみればもちろん、映画のようにフェラーズがすべて自分一人でがんばったわけではない。
だけど、フェラーズ、という、聞きなれない名前がきっかけで、私のようにあれこれ学び出す人間だっているわけだ。
この手の映画はなんでもそうだが、映画をうのみにせず、自分で調べて考えるきっかけにするべきだ。

私の父は昭和7年生まれで、戦後、台湾からの日本に引き揚げてきた。
そんな父は、子供の私に『西部戦線異状なし』を見せ、強制的に広島の原爆ドームと資料館に連れて行くような人である。私が大人になってからは、日本に引き揚げて見た焼けて何もなくなった町のことや彼自身の価値観が大きく崩れた話を何度も聞いた。
この映画に出てくる焼け野原となった東京の姿に、父の話がかぶる。
そんな彼はいつも言う。
「終戦じゃない。敗戦だ。終戦なんて言ってごまかすから、いろんなことを間違える」
自虐史観でもなんでもない。負けたのは事実だ。
先の戦争について思うとき、いつもそのシンプルなことを腹にすえてから始めている。


↑宇宙人ジョーンズはマッカーサーに全然似てない。
でもこのシーンの前、飛行機の中でのやり取りは好きだ。
まさしく、彼をみて日本は「アメリカ人の男ぶり」にヤラレたわけだから。