2013年12月25日水曜日

『REDリターンズ』(RED2) そして次世代へと続く道

チケットを買うため自動発券機の前に並んでいたら、隣の発券機で中学生くらいの男子がチケットを買っていた。
発券機でもたもたしている家族連れやカップルが多い中、さすが子供は機械の扱いを覚えるのが早いなあと思って見ていたら、少年が購入しているチケットのタイトルが見えた。

 RED リターンズ

少年に連れはなく、ひとり。発券機の手慣れた操作は、少年がよく映画館に来ていることを示していた。

前作最年長だったモーガン・フリーマンがいないとはいえ、登場人物の平均年齢が60歳近い映画である。観客の平均年齢も40歳半ばといったところだ。
むろん、家族連れはいた。
でも中学生男子が一人で観に来たりはしていない。
この映画は続編だから、彼は前作を見ているはずだ。
『RED』が面白いといった中学生は1人しか知らない(そもそも中学生の知り合いはほとんどいないが)。

それにしてもREDシリーズはヘレン・ミレンの映画だ。
はげ二人もハンニバル二人も、ヘレン・ミレンのエレガンスには敵わない。
セルフ・パロディでエリザベス女王まで披露した彼女は無敵である。
加齢臭などありえない。

↑このコート欲しい・・・

そんな彼女の魅力に、あの中学生は気づいただろうか。
かっこいいおばあちゃんでしかないだろうか?
いや、少年にはわかるはずだ。

イ・ヴォンホンの裸もいつか衰える。
少年が私の歳になるころ、少年のための『RED』が作られるかもしれない。
その時イ・ヴォンホンが出ていれば、彼は感がい深くこの日を思い出すだろう。
私がブルース・ウィリスに、まだ髪があったころをしみじみと思い出すように。

↑誰だって一度は若き日があったのだ

2013年12月5日木曜日

BON JOVI 日本99&100回公演に行ってきた

12歳だ。Livin' on a Prayerを聞いて、BON JOVIのファンになったのは。
姉たちが洋楽ばかり聴いていたこともあって、それまではMADONNAとThe POLICEが好きだったんだが(それはそれでオカシイ小学生だ)、Livin' on a Prayerで、やられた。
お小遣いでSlippery When Wet(この時はテープ)で買い、New Jerseyの時には親がデッキをかってくれたのでCDを買い・・・・・・今に至る。
ただし、ライブデビューは大学生、福岡ドームでのCross Road Tourから。
それからは福岡でのライブは全部参加、ツアーが大阪どまりになってからはお金の余裕もでてきたので大阪や東京に参戦するようになった。
それでも、大阪⇒東京と、2公演梯子したのは今回が初めてだ。


多分、今回の公演は賛否両論あるんだろう。
リッチーはいないし、ジョンの体調は最悪だし(特に大阪)、セットは地味だったし(ただし私はあまりセットに興味がないので別に構わんが)、金返せという人がいても驚かない。
その理屈でいえば、私なんぞ、チケット代に交通費(福岡⇒大阪⇒東京⇒福岡)に宿泊費にグッズ代の合計金額を思うと、ブーイングのひとつやふたつしたっていいのかもしれない。
でも、いまの自分は、最高潮に満ち足りている。
なぜなら、BON JOVIのライブに一番求めているものは、ちゃんとそこにあったから。

ジョンがMCで言っていたけれど、Friendship なのだ、彼らのライブに感じるのは。
不思議なことだし、ファンの錯覚・妄想だと言われても否定しない。
ライブでの私たちとBON JOVIの間にあるのは、驚くほど近しく親しい感情だ。
相手は、世界的ロック・バンドなのにね。

ライブ後、否定的な書き込みをみた。
「日本のファンは(出来の悪さに対して)優しすぎる」(おっしゃるとおり)
「歌詞も覚えてない日本人相手に100回もライブするくらいなら俺の国でやれ、日本のライブは退屈だ!」
("People in Japan seems to be frozen!!"には爆笑した。否定できんし!(笑))

でもさ。
私たちと彼らの間にあるのは Friendship だから、そこには思いやりと励ましと支えあいがあって当たり前だし。
(大阪で、両手を合わせておじぎするジョンは「今日はゴメン、ありがとう」って感じだった)
日本人がおとなしくて言葉がわからないことなんか30年前から日本に来ている彼らは百も承知だし。
(インタビューでも、ジョンは「国によって(楽しみ方の)表現が違う」と言っている)

もちろん、ファンなんだから私たちはライブを楽しみに行くわけだ。
でも、同じくらい、私たちはBON JOVIに、ジョンに楽しんでもらいたい。
リッチー不在だからジョンの負担は大きくて、だからデイヴィッド(大阪での代役ソロには涙がでた)、ティコがんばれ!といつも以上に応援する。
少々不安だったリッチーの代役フィルXだけど、実際にみたら「おまえ結構イイ奴じゃん!」と仲良くなって(?)フィルXコールしてみたり。
そしてもちろん、ジョンの調子が悪くなると、私たちが歌って支える。
だって今までなんども彼らの歌に励まされてきたんだから。
すると苦しそうに歌っていたジョンが、嬉しそうにニコッと笑う。
その笑顔をみて私たちも笑顔になる。
私たちの笑顔で、またBON JOVIが笑顔になる。
そして感動したジョンが、目を潤ませる・・・。
ああ、気持ちが伝わった!と思う瞬間!

この交感があるかぎり、私はライブに行き続ける。
この交感があるかぎり、私はBON JOVIのファンであり続ける。
だって、friends なんだから!

↑こういう顔の時に「がんばれ!」と思う。そしてそのあと笑顔になってくれるのが幸せ

2013年10月20日日曜日

『そして父になる』男は大変だ

珍しく邦画を観にいった理由は、仕事がらみでタダ券をもらったから・・・でもあるんだが、雑誌「映画秘宝」でリリー・フランキーが「(『凶悪』より)先に『そして父になる』を観て」と言っていたから。
もともと『凶悪』は観る気満々で、これを書いている今はすでに観た後なんだが、結論からいえばどっちが先でもショックが大きいから一緒じゃないかと思う、と、リリーさんに伝えてあげたい(笑)

それはそれとして(笑)
実は主役の福山雅治の父親役に私は非常に懐疑的だった。
父親役ができない、と言うことじゃなくて、二枚目で陽性でかっこいい福山に、苦悩する父親ってできるのかなあと思ったのだ。
ところがそんな懸念がふっとんだ。
子供の取り違えを知り、福山が踏切で止まった車の中で、吐くようにしていう言葉に、尾野真知子同様ショックを受けた時、そこにいたのは福山雅治ではなく、当たり前のように血を優先させる父親「良多」だった。

是枝監督は、丁寧に丁寧に家族の姿を撮っていく一方、登場人物の内面を事細かに説明するようなセリフも演出もしない。
その代わり、良多の目に薄暗いものが陽炎のように立ち上っている。
薄暗いもの、と思うのは、映画前半での私は母親の心情に同調していて、良多にたいして激しく反感を覚えていたからだ。
でも終盤、彼が取り違えに関係した相手と会う場面で、心が一気に良多に傾いた。
良多は、彼の周囲で育まれている「血のつながりのない家族」の有り様に、打ち負かされる。一気に崩れ落ちていく。
崩れて、もう一度、「父親」をやり直そうとする。

↑この目を六年も育てた我が子にする・・・男親って男親って・・・

知人の男性(父親である)がこの映画を観たというのだが、前述の、私がショックをうけた良多の言葉を、覚えていなかった。尾野真知子がその言葉のことで良多を責めるシーンでやっと「そんなことをいってたなあ」と思ったそうだ。
たぶん、男性は、この映画で良多と同じ心の軌跡をたどるのだろう。
男とは、なんとまあ苦労の多い生き物なのか。
たしかにこれは、「父に<なる>」だ。
私は未婚で子供もないが、前半は尾野真知子の心情に同調してたと書いた。
だが良多が母親たちに打ち負かされたとき、私は良多に対して母性を感じて、少しだけ泣いた。
彼があまりに弱々しくて。
映画の終わり方も、良多がなにかの決断をしたわけではなく、父としての一歩を踏み出す決意が見えた、そんなところで終わっている。
もがく良多が、たまらなく愛しく思えた。

私がこの映画で泣いたのは、1シーンだけ。それも、目頭が熱くなった、という程度だ。
泣いてる暇はなかったのだ。しっかり見ていなければ、掬いとれないいろいろなものが画の中にあった。
一方で、私の周囲でこの映画を観た女性たちは、感想を「そんなに泣けなかった」の一言で終わらせた。
だがしかし、映画とは、「泣ける」かどうかで価値が決まるのか?




2013年8月25日日曜日

『パシフィック・リム』(Pacific Rim) 四の五の言わずに、観ろ

マジンガーZだっ!!!!!!
ライディーンだっ!!!!!!

映画が始まり冒頭10分もたたない内に、私は我を忘れて口走った。
もしあなたが子供時代、ロボットや怪獣に歓声を送ったことがあるのなら。
四の五の言わずに、とにかく観ろ!

私が我を忘れたのは、冒頭のイェーガーの出撃シーンでのことだ。
頭部(コックピット)がイェーガーと合体するところで『マジンガーZ』が。イェーガーが基地から出撃するとき岩肌(実際は鉄の扉だけど)が割れて出てくるところで『ライディーン』が(冷静に比較すると全然違うんだけど)、頭のなかでフラッシュバックした。
あの時、あなたと私がドリフトしていたら、幼いころの私が暗記していた『ライディーン』最終回のセリフを全部聞かされる羽目になっただろう(私の持てる暗記力のすべては『ライディーン』に使い果されたと信じている)。
二時間余の間、私の心は小学生だった。

幼いころから大学に上がるころまで続いた私のアニメ生活のほとんどは、男子向けアニメが中心だった。
リアルタイムで観たのはもちろんだが、東京に住んでいた小学生のころは、夕方にアニメの再放送枠があったので(『マジンガーZ』や『勇者ライディーン』などはこの再放送で観た)、そのおかげで5~6年くらい上の世代が観ていたアニメも大抵はみてきた。70年代・80年代の私は、戦うアニメにまみれた生活だったのだ。
そんな私がアニメを観なくなったのは、単純に、キャラクターの絵柄に幼さを強く感じるようになったから。昔は実年齢より大人っぽかく描かれてた気がするんだが・・・・・・。

←ブライト・ノアはこんな顔だけど19歳だぞ!

だから『パシフィック・リム』を観ていてものすごく安心できたのは、登場人物が明らかに大人だというところだ。
思わず20年ぶりぐらいに映画のノベライズを買ってしまったんだが、そこで確認すると一番若いマコだって二十歳は過ぎている計算になる。主人公のローリーは三十近い大人だし、彼がイェーガーに乗り始めた年齢だって、二十歳ぐらいだろう。
その一方で、イェーガーのパイロットはキメのポーズをしっかりやるし、パイロットがやるということはイェーガーのシステム上、当然ロボットもキメてくれるし、必殺技の時は叫んでくれるし(英語では「ロケット・エルボー」だった技が、日本語吹替版では「ロケット・パンチ」に変わっていた。最高だ!)、怪獣は肉感的で瞳が生きてて動きが思いっきり特撮調だし、飛ぶ怪獣は出ないのかなーと思っていたら飛ぶし、さすがに剣は出ないよなーと思っていたら出てくるし。ああたまらない。

そしてそのすべてを、デル・トロ監督は本気で作っている。

デル・トロ監督は、『ブレイド2』や『ヘル・ボーイ』の時に漠然と感じてはいたのだが、オタク愛と大人の成熟が両方備わっている理想的な監督だ。われわれ観客の子供心を刺激しつつ、ちゃんと大人扱いしているのだ。
私の本質はオタクだ。アクションや怪獣やメカが大好きだ。しかもデータ派ではなく本気で感情移入する性質のオタクだ。
でも、もう大人だから大人のキャラクターにしか共感できなくなってるし、作品の向こうに作り手が透けて見える程度には目も肥えた。小学生のころは高校生のひびき洸に恋したけれど、いまはアラフォーだからひと回り下のローリーぐらいが限界だ。製作費はなくとも「こんなの作ったんだ!ぜひ観てくれ!」と作り手の声が聞こえるような作品には感動するが、金欲しさに観客に媚びた映画は鼻につく。
だから、この感情移入が大得意な私でも、2時間どっぷり虚構の世界につかり、現実を完全に忘れられる映画は、最近ぐっと減ってしまった。
『パシフィック・リム』は、そんな数少ない映画なのだ。

・・・・・・

鑑賞一回目は、2D字幕版。これでも十分我を忘れて盛り上がったが、何せスクリーンが小さく迫力には欠けた。
ということで、2回目はIMAXシアターでの3D吹替版で鑑賞。3Dにこだわったんじゃなくて、とにかくいい映像といい音(私は機械音が好きなのだ)で聞きたかったからだが、これが大当たりだった。
3Dのおかげで重量感や大きさにもより迫力が加わったし、装甲や怪獣の皮膚などの細部まできれいに見えて感激だ。音に至っては手に持ったコーヒーのカップがビリビリ震えるほどの振動まできて、五感の内もうあと足りないのは嗅覚だけ、といった状態だった。
ああ、最高!
それに吹替ではクレジットもいらないような超有名声優がメインのキャラクターを演じているので、幸せだった。あえて言うなら、ロン・パールマンの声は谷口節氏が亡くなったから諦めるとして、ローリー役の杉田智和氏はヒーロー声ですごくカッコ良いいんだけど、あれだけベテラン陣を集めたんだし、いっそ井上和彦氏あたりをもってきてたら、私の理性は完全に吹き飛んだだろうに。(なぜそんなに理性を吹きばそうとするんだ、私は)

・・・・・・

さあ、いいかい?もう一度だけ言うよ?
四の五の言わずに、とにかく観ろ!


↑あああカッコイイ~~~~!!!!

『ワールド・ウォー・Z』 (World War Z) World War ”Zombie”

この映画の予告編について、知人と討論(?)になった。
予告編での、逃げまどう人々、異様な動きをする人間、そして人間がまるで津波のように襲いかかる映像。そしてタイトルは『ワールド・ウォーZ』。
そう、「Z」。だから・・・・・・

sinok:「Z」なんだから、これはZombie(ゾンビ)の映画なのよ!
知人:ゾンビだなんて宣伝してないし、「Z」がゾンビの頭文字なら、
    マジンガーZもゾンビだっていうのか?
sinok:マジンガーはマジンガーだからゾンビなわけないじゃない
    人間がうじゃうじゃと人を襲ってて「Z」だからゾンビなの!
知人:・・・・・・(絶句)

この映画がゾンビ映画だと隠して宣伝されていたことを知ったのは、映画が封切られる直前のことでした。
結構、ショックです。
宣伝の方法がひどいことじゃありません。普通は「Z」ときいて「ゾンビ」の頭文字だとは思わない、という事実にです。
『ウォーキング・オブ・デッド』にはまっている私は、「Z」とみると「ゾンビ?」と反応する脳になってしまっていたのです。もし本当にゾンビとは無関係な映画だったら、マヌケもいいとろろです。
それにこれでは、日本の間違った映画宣伝のありかたを批判することもできません。

レイティングを下げるためだというが、ゾンビ映画なのにゾンビに食われる怖さはゼロだし、ゾンビ自体をしっかり見せるシーンも少ない(昨今多い走るゾンビの場合は、たしかにゾンビがよく見えないのだけれど、捕食シーンや流血シーンはしっかりあるものだ)。
それでいて、怖い。
なぜなら、予告にもあったとおり、人間があり得ない動きをしながら奔流のように襲いかかってくるところなど、いままで観たことがないからだ。
やつらに何をされるのかわからなくても、なんだか怖い。いやもう、反射的に怖くて逃げたい。
ゾンビははっきり見えないのに、生理的な怖さはちゃんとあるところがすごい。

ゾンビだけではなく、ブラピ演じる主人公もいい。
この主人公、よく考えると、序盤と終盤以外ほとんどゾンビと闘っていない。
なぜなら彼には戦うスキルがないのだ。彼がもっているのは、元国連職員として身に付けたスキル。紛争や疫病の知識だ。
ただし、戦える者が自分しかいないとき、彼は戦うことを厭わない。勇敢で、責任感の強い人間だ。
彼は、はじめ、家族のために、世界を守る鍵を探しに旅にでる。そして、世界を守ろうとするブラピのために、世界中の人が立場を超えて彼に知恵と力を貸してくれた。そして大勢が命を落とす。
だからブラピは、家族を思いつつも、世界のために任務を果たそうとするのだ、命がけで。
マイ・ホーム・パパがヒーローになっていく過程で、火事場の馬鹿力を発揮するわけではなく、多くの人々に支えられているということが、なんだかとても新鮮で、でもすとんと腑に落ちた。
普通、ゾンビ物は生存者の心の暗部をえぐりだすものだが、逆に人の良い面を前面に出し、将来起こるかもしれないパンデミックや大規模災害にも、なんだか希望が見える物語になった。

ゾンビ映画なのに、ゾンビ物定番の描写も絶望した人間の醜悪さも描かず、でも、いままでのゾンビものになかった魅力が満載で、その魅力もまたゾンビと世界の終りが生み出したものだというこの不思議。
ブラピがこの映画を「洗練されている」と言っていたがまさにそうで、これまで後ろ暗い存在(?)だったゾンビが、とうとう太陽の下にさらされてしまった気分がする。
恥ずかしいような、ちょっと誇らしいような。
ぐちゃっとしたゾンビの造形は、私だって生理的には苦手だ。
だけどゾンビ映画の魅力は、造形の先にあるから、私はなんだかんだでゾンビを観てきた。
でもまだまだゾンビの魅力はこんなものじゃないんだと、ブラピが私に教えてくれたのだ。

くう~~。ブラピさま。ぜひ、続編お願いします。お蔵入りになったという噂の、ゾンビ大血戦inロシアを観たいです!!


↑ときどき自分が人様の足を引っ張ってしまう主人公。
これが嫁(アンジー)の方なら、無敵だったんだが(笑


『シリアル・ママ』(Serial Mom) 祝!DVD&BlueRay化!

大学生だったあの日。
お昼のワイドショーを見ていなかったら、私はこの映画の存在を知らないままだっただろう。
映画評論家のおすぎ氏が、困った顔をするアナウンサー(?)相手に熱弁をふるっていた。
「とにかくこの映画はすっごく面白いの!」
だから、私は観に行った。もう20年近く前のことだ。
そして、この映画を観に劇場へ行った、という事実のおかげで、会社で後輩から英雄のごとく崇められている今日この頃である(本当)。

ビバリーの魅力は、殺人そのものと同じくらい終盤の法廷劇にある。
シリアル・キラーと言えば去年の『悪の教典』を思い出すのだが、あの自己チュー殺人鬼のハスミンは犯行がばれて咄嗟に精神異常を装うという、引き出しの少なさを露呈したのに対し、彼女は堂々と無罪を主張するのだ。
それも、彼女は「私はあなたたちと同じだ」と言って、本当に無罪を勝ち取ってしまう。
ハスミンは人間の弱点をつくことはできるが、共感能力がまったくないため、人間性を理解しているとは言い難い。ビバリーは、家族を愛し生活を愛し社会を愛している。世間も社会も人間もよく知っている大人で・・・・・・ただ、共感できない相手をいたぶったり殺すことを厭わなくて、むしろそれを楽しんでいるだけのこと。
そして、無罪になったところで迎えるエンディングが素晴らしい。
シリアル・ママは、世間も社会も人間も知っていて、うまく立ち回る能力だってあるけれど、一瞬たりともそれらに委縮して自分を見失ったりはしないのだ。

それにしても、80年代を美人女優としてならしたキャスリーン・ターナーのこの雄姿は、あまりの衝撃とともに、この20年私の頭に焼きついて離れなかった。
再見して驚いたのは、自分がほとんどのシーンを覚えていたことだった。最近は昨日みた映画の内容だって忘れちゃうことがあるのにね。
当時のキャスリーン・ターナーの年齢とほぼ同じになったいま、またこの映画を観ることができて、これほど嬉しいことはない。
『シリアル・ママ』をDVD&BlueRay化した関係諸氏に、心からの感謝と敬意を表する次第であります。

↑映画史上、もっとも肉包丁の似合う女優

『終戦のエンペラー』(EMPEROR)  先の戦争をおもっての雑記

あの戦争やあの時代を描いた映画を必ずみるというわけではない。
でも観たら、考える。映画のことだけではなく、色んな事を。
今回は、その雑記にすぎないがご容赦いただきたい。

日本は、敗戦国としてものすごく幸運な国だった。
戦争を続ける力がもう残っていなかったこと。占領統治をアメリカが行ったこと。最高司令官が野心丸出しのマッカーサーだったこと。共産主義への警戒心が強かったこと。
でも映画の中で何度も語られていたとおり、天皇制が残ったことが、ずば抜けて大きい。
劇中フェラーズが話したとおり、昭和天皇が逮捕・処刑されていたら、復興は遠のいたに違いない。
戦争に負け、価値観がズタズタになった日本で、もし天皇まで否定されたら、玉音放送を聞いて文字通り「堪へ難きを堪ヘ忍び難きを忍び」降伏した人たちは、何をよすがに占領下を受け入れればよかったのだろう。

天皇制が残った影に、フェラーズという無名の男がいたという。
映画をみてパンフレットを読んで、家に帰ってからもいろいろ調べた。本も買おうかと思っている。
調べてみればもちろん、映画のようにフェラーズがすべて自分一人でがんばったわけではない。
だけど、フェラーズ、という、聞きなれない名前がきっかけで、私のようにあれこれ学び出す人間だっているわけだ。
この手の映画はなんでもそうだが、映画をうのみにせず、自分で調べて考えるきっかけにするべきだ。

私の父は昭和7年生まれで、戦後、台湾からの日本に引き揚げてきた。
そんな父は、子供の私に『西部戦線異状なし』を見せ、強制的に広島の原爆ドームと資料館に連れて行くような人である。私が大人になってからは、日本に引き揚げて見た焼けて何もなくなった町のことや彼自身の価値観が大きく崩れた話を何度も聞いた。
この映画に出てくる焼け野原となった東京の姿に、父の話がかぶる。
そんな彼はいつも言う。
「終戦じゃない。敗戦だ。終戦なんて言ってごまかすから、いろんなことを間違える」
自虐史観でもなんでもない。負けたのは事実だ。
先の戦争について思うとき、いつもそのシンプルなことを腹にすえてから始めている。


↑宇宙人ジョーンズはマッカーサーに全然似てない。
でもこのシーンの前、飛行機の中でのやり取りは好きだ。
まさしく、彼をみて日本は「アメリカ人の男ぶり」にヤラレたわけだから。

2013年7月6日土曜日

『オブリビオン』(Oblivion) トム・クルーズはこうでなきゃ

トム・クルーズの主演映画で、一番好きなものはなんだろう?
私の場合、それは『ザ・エージェント』Jerry Maguire)である。
この映画の中のトムは、スポーツが好きで仕事も好きで、野心も夢もあり、傲慢で短気で、友情に誠実で深い愛もあり、勇気もおびえも迷うことも決断力もあり・・・なんというか、フツーの男なんである。
アメリカン・ドリームな映画で何がフツーかという向きもあろうが、欠点も良いところも両方あり、その間をふらふらしたりしている姿は、フツー以外の何物でもない。
そしてそのフツーの男が困難を乗り越え、アメリカン・ドリーム(成功と家族)を手に入れる。
この映画でのトム・クルーズは、アメリカのもっとも良い姿の典型だ。
そもそもトム・クルーズの演じる男たちは、みんな善きアメリカ人の姿が投影されている。
長所も、そして短所も。

前置きが長くなったが、『オブリビオン』である。
『ザ・エージェント』から20年近くたったいま、私は、一番好きなトム作品は『オブリビオン』と答えられる。
『オブリビオン』は、SFとしてはクラシックな作品だ。そしてトムの出演作としては、私が勝手に名付けたところの<トムのための映画>に分類されるだろう。
いつかどこかでみたような映像、物語、いつものトム、たしかにそうだが、このジョセフ・コシンスキー監督は私と同年である。
彼が影響を受けた作品は、おそらく私も見ている。SFも、トムの映画も。
だから分かるような気がする。
この人は、好きなのだ。自分の見てきたSFと、トム・クルーズが。
そしてこの人が好きだと思うSFとトムが、私の好きなそれらと似通っていて、映画を見ている間がとても幸せな気分になった。
この映画には、善きアメリカ人のトムがいる。
冷徹に考えれば欠点だらけのアメリカなんだが、それでも私は善きアメリカが好きだ。
『オブリビオン』のトムには、私がこうあってほしいと思うアメリカの姿が詰まっている。
そしてそんなアメリカは、今のご時世、もうSFでしか描けないようにも思う。

トム・クルーズって、もしかしたら、現代版のゲイリー・クーパーかもしんない。
褒めすぎかしらん?

↑"Touch Down!"ってはしゃぐトムが好きだ

2013年5月14日火曜日

『アイアンマン3』(Iron Man 3) 音で観る、それがなにか?

IMAXデジタルシアターで映画を観る理由は、質のいい映像だけではなくて、音にもある。
一般的な賃貸住宅でうっかり高品質な音響設備を整えたとしても、映画館のそれには敵わないし、近所迷惑になって大家に怒られるはめになる。
だから、私は『アイアンマン3』をIMAXで観た。
ただし、私が聞きたかったのは、迫力ある爆音では、ない。それは・・・

スーツの音!!!


私は機械音が大好きだ。
どれぐらい好きかというと、職場でコピーをとっている時、コピー機の音に合わせてリズムをとっちゃうぐらい好きなんである。(たまに同僚に目撃されてバカにされる)
でも一番好きなのは、ウィーン、ではなく、カシャンカシャン、という系統の音である。
金属と金属のあたる音。そしてその音がでる動き。
その点、アイアンマンは最高だ。
『1』で一番ステキだったのは、踵。踵の動くシーンはどれもこれもワクワクした。
『2』は携帯スーツを着るところ。カシャカシャと装着されていくのはときめくシーンだ。
で、今回の場合は、スーツのパーツが飛んでくる、というすてきな装着方法なので、トニーがスーツを脱ぎ着するたびに胸がキュンキュン(死語)してしまった。
クライマックスでの心拍数なんかMAXだったに違いない。



↑新作スーツの装着シーン。特に足から膝にかけての音

ちなみにこういうことを言っていると、「じゃあトランス・フォーマー好きでしょう」と、大抵言われるが、私はあの映画の音はダメだ。
変形するときの、ウ~リュリュリュリュ、って音。カッコよくないので私にとっては機械音ではない。
(聞き比べたい人はYouTubeで検索して聞いてください)

ということで、大好きな音と動きが、IMAXシアターのおかげで、耳元で!3Dで!リアルに楽しめる『アイアンマン3』は、私のフェチ心を100%満たしてくれた。
ところで私、このシリーズ、音と動きばかりに集中していて、ちゃんとストーリーを覚えているのは1作目だけだなんてそんなこと、口が裂けても言えないわ。

↓こんなものを見つけた。ぜひ『3』も加えてほしいなあ



2013年4月25日木曜日

『テッド』(ted) 映画に初めて「自分」を感じた瞬間

この映画のテレビCMを見たとき、実はかなり疑ってかかっていた。
相方がクマだってだけで、ようは、グダグダな男たちの下品な話なんだろうと。
でも知人が「ぜったい、sinokはみろ」と言う。
その勧めと、町山さんが翻訳監修、主演がマーク・ウォールバーグ(結構好き)、この三つが揃わなければ、多分私は見なかった。

さんざんテレビや劇場で流れていたCMは、『テッド』の一番重要な部分をごっそりそぎ落としている。
ダメ中年とぬいぐるみの、痛烈ギャグ映画、では、ない。
これは「オタク」の物語なんであって『宇宙人ポール』あたりとおんなじなのだ!!


観て、冒頭10分と経っていなかっただろう。
長年映画を観てきて初めて感じた。

これは私と同じ奴の話なんだ!!
だって!
子供たちがもらったクリスマスプレゼントの中に(一瞬)、

スター・ウォーズのフィギュアが見えたんだもん!

もうこの時点で、私はおちた。

そして、エピソード1公開時に主人公ジョンとテッドがダース・モールとヨーダのコスプレをしてるシーン(一瞬)がでてきて

自分がもっと人目を気にしない人間であったなら!!

と、当時の痛い悔恨が甦る事態に至っては、もう完全移入を通りこしてすでに私は映画に同化していたのである。

しょーがないでしょ。

私、人生初体験の劇場映画が『スター・ウォーズ』なんだから!


ここで彼らの神・フラッシュ・ゴードンにも同調していたらもはや現実と映画の区別がつかなくなっていたところだが、残念ながらフラッシュ・コードンに愛はない(知ってる自分が怖いが)。
でも、B級映画のヒーローのせいで後々までの趣味嗜好が決定してしまう、あの抗いがたい感情はわかる。
私だって、ドルフ・ラングレン(『レッド・スコルピオン』大好き)かジャン=クロード・ヴァン・ダム(『サイボーグ』最高)が友達の家にきてる!なんて言われたら、いろんなものを放りだして会いに行く。
もし両方きてたら・・・・・・うひゃあ!!(『ユニソル』は最高の二乗)


私は、この映画のストーリーや大量の毒舌お下品ャグを楽しんだわけではなかった。
私はエロは◎だがスカ系は苦手だ。
でも、この映画は、私がもし男に生まれていたら、もし同種の友人がいたなら、もしファッションに興味をもつことがなかったら、もし・・・もし・・・を重ねていった先にきっとあったはずの、自分の物語だったのだ。

ああ、こんな人生、私も歩んでみたかった。


追記1:私も着メロを「帝国のテーマ」にしていたことがある

追記2:いま気づいたが、ほとんど『テッド』について書いてない。・・・ま、いっか

このマーク・ウォルバークのアホ面が好きだ
あ、シリアスな役も好きよ

2013年4月3日水曜日

『ゼロ・ダーク・サーティ』(Zero Dark Thirty) 女・男社会・働き者

この映画の政治的軍事的な側面についてはとっくに語りまくられていていまさらだ。
私は「無知は罪だというのはわかっちゃいるが、でもなんでもかんでも知った方がいいってわけでもないわな」という気分になった、って程度でやめておく。

そういうこととは別に、私が強烈にイメージに残ったのは、主人公マヤの髪なんである。
映画の冒頭ではふわふわ巻き巻き編み編みと、不器用な私にはどう作るのかもわからない髪型で彼女は登場する。
中東のど真ん中に、えらく可愛らしく登場する彼女は、砂まみれのオフィスも気に入らず、先進国の快適さが皆無の世界に不満である。
ただし、マヤには拷問にひるまないガッツがあったのだが。
マヤの髪型は、物語が進むにつれて変化する。
こった髪型は消え、一つにひっくくるだけになる。
いつの間にか巻髪はストレートに。
ひっくくる髪はだんだんほつれていく。
最後は髪も結ばず、洗いざらしのような髪が砂交じりの風になぶられていく。
その彼女の姿には、映画冒頭のマヤはいない。
たくましく、ゆるぎない姿には、男たちですら、信頼を寄せる。

女性が、男性の多い職場で働き、実力を発揮するのは難しい。
どこかで彼女のようにぶつかり、かみつく日はやってくる。
ファッション雑誌のように、美しく、笑顔を絶やさず仕事をしている女性は、本当は少ない。
少なくとも、男性に伍して働く女性には。
(そういう手合いの女性の笑顔は、たいていは戦略的なものだ)

表情がこわばり、すさんでいくマヤの姿に、自分を重ねた働く女性は多いのではないだろうか。
ビグロー監督も、働く女性だ。
明らかに政治的な面で語られるだろう映画の中に、彼女は男性社会で働く女性の苦悩を、言葉にすることなく描いている。
そこに、感情移入の難しいテーマをもつこの作品に、心を寄せやすい隙がある。

最後の涙の解釈はいろいろだ。
あれは、ひとつの感情だけで流した涙ではない。
いろいろな感情が混じった涙だ。
ビン・ラディンの殺害、拷問、テロ、仲間の死・・・そのすべての意義を問い直すこと。
それらと比べれば小さいことなのだろうけど、でも涙の中のいくつもの感情のひとつには、われわれ働く女性たち全員が、一度は流した涙が混ざっているはずだ。
われわれ女は、なんて遠くに来てしまったのだろうと。


↑中盤。まだ巻き髪に可愛らしさあり。


↑クライマックス。もはや愛らしさはゼロ・ダーク・・・

2013年3月21日木曜日

BON JOVI 『WHAT ABOUT NOW』 そう、まさに今

忙しさと苛立ちの最中にでたBON JOVIの新譜。最高。
いま、これを聴かないと会社に行けない。行けないぐらいのストレスの中、BON JOVIが「Because We can」と歌ってくれるから会社に行ける。
人生の応援歌がBON JOVIの曲の特徴だけど、それは本当に力をともなう応援歌だ。
なんだろう、すごく陽性のブルース・スプリングスティーンみたいだ。

最高のアルバムなんだが、新鮮な曲だとか、名曲が入っているというわけではない。
いつかどこかで聞いたような歌詞、口ずさんだ様なメロディー。
でも、そんな歌詞とメロディーを、私はまさに「今」聞きたかった。

「今」を曲にすることに、BON JOVIほど長けたミュージシャンは多くない。
今を切り取っていけるからこそ、80年代HRバンドがビックなまま21世紀にも活躍している。

「Because We can」といって励ましてほしかった。
「I’m with you」といってそばにいてほしかった。
「What about now」と、叱咤してほしかった。。。。

そうそう、そうなんだよ。
どうしてBON JOVIにはわかるんだろう?
わたしたちが、いま、あなたたちにそう言って欲しいってことが。

ありがとう。
がんばれるよ。
Because We can!!


New Albumが全米NO1取りました。おめでとう、BON JOVI!!

2013年2月17日日曜日

 『ダイ・ハード ザ・ラスト・デイ A Good day to Die Hard』がんばりすぎる男に思う

この映画を観に行く前にヨガのレッスンに出てたんだが、先生が「(ヨガをしている時)息を吐くのが得意な人は人に任せるの得意で、吸うのが得意な人は自分でがんばるタイプ」という説がある、という話をしていた。
私の場合は吸う方が得意で、確かに一人でなんでもやっちまう。
で、映画を見ながら思ったのだ。

マクレーンも息を吸う方が得意な男に違いない。

マクレーンは確かに本人の主観でいえば運の悪い男なんだが、周囲の人間からすれば、むしろ彼の方が疫病神だ。
なぜって、劇場で見ている時はまあ盛り上がってるからうっかり忘れているが、後で、たとえば日曜洋画劇場あたりでのんびり観ている時なんかに「マクレーンが何もしなければもっと穏便にことが収まったんじゃないのか?」と気づいてしまうのだ。
トラブルが起こった時、マクレーン刑事は見過ごすことができない性分だ。職務上?いやいやそんな域は超えている。
今回だって、息子が心配でロシアに行っちゃうところまでは、まあ普通の親でもするだろう。
だが、息子のいる裁判所でテロらしきものが起こったからといって、息子が親父を無視してなにかヤマそうなことをしているからといって、人様の車を盗んだあげくに無関係なモスクワ市民の日常を破壊しまくって息子を追いかけるのは、もはや親だからでも刑事だからでもなく、彼の性分なんである。
しかも今回は他国にいるわけだから、国家権力に頼るという発想が生まれてきてもおかしくないはずなんだが(そもそも彼自身が国家権力のはずだ)・・・・・・。
←家族はいつも一番の被害者


まあ、確かに、ビルから飛び降りようとか、相手をぶんなぐろうとかって時に、息を吐いてことにおよぶ奴はいない。
アクション映画の主人公に、人任せな性格の人間がいたら話は成立せんしね。
とはいえ私はマクレーン刑事を見て思うのだ。
一人でなんでもやろうというのは、他人にいらぬ迷惑をかけるのだと(笑

とはいえそうそう、性格は変わらない。
傷だらけになっても無理を通し、周りを爆破する勢いで突き進むのなら、せめマクレーンのように自虐ネタで苦笑いしながら中指立ててがんばろう。
彼が無辜の市民に迷惑をかけるたび、なんだか勇気をもらうのだ(笑

Yippee ki-yay !!
  ↑でも最終的には親子でハタ迷惑。次回は娘も加えて三人で世界に迷惑をかけるのだろう

2013年2月11日月曜日

『レ・ミゼラブル Les Misérables』 映画にしかできないことがある

ゴールデングローブ賞で、作品賞、主演男優賞、助演女優賞を受賞。アカデミー賞も8部門ノミネート(2013.2.11現在)。でも一つ大切な賞がない。

絶対にトム・フーバーに監督賞(ノミネート)をあげるべきだよ!

気づけば邦画も洋画も、原作モノの映画化がてんこ盛り。小説はもちろんだが、マンガに舞台・ミュージカル・・・・・・そのうちヒットしたものはどれだけあるのか?
成功したか否かの差は、違う媒体の作品を、どう映画に翻訳できたかにかかっているのではないだろうか。
この『レ・ミゼラブル』。原作もミュージカルの舞台も、ケチをつける人は誰もいないだろう。名作中の名作だ。長大な原作を短くするのは難しいが、すでにミュージカルで実践済み。やろうと思えばそのまま舞台を映画化にもっていけばいいのだが・・・・・・。

オープニングからジャン・バルジャンが仮出獄許可証を破り捨てるまでで、これはもう舞台の映画化ではなく、見事に映画だと思った。
超低音で響く囚人の歌声にのせ、映画を見る前に思っていたイメージを遥かに超えるスケールの難破船に、それを引き上げる囚人たち。ズームアップで見せるジャン・バルジャンの顔。
←歌声がなきゃヒュー・ジャックマンと分からん

逆にズームアップでジャン・バルジャンが自らの苦悩を歌い、仮出獄許可証を破り捨てたところでカメラが空高く登っていく。

役者たちの歌を撮影現場で生でとったというアイディアも見事だし、それに応えた俳優陣ももちろん見事だが、歌う役者たちの顔をズームで映し、名曲の高揚を上昇するカメラで表現することこそ、絶対に舞台ではできない演出。
舞台をそのまま映画にしたのではなく、どうすれば映画作品としての『レ・ミゼラブル』を撮るのかを考え抜いたトム・フーバー監督こそ素晴らしい。
作品賞でたたえてもいいのだけれど、元が素晴らしいのが分かりきってるのだから、監督の力量を一番褒めてほしいなあ。

革命も、民衆の英雄としてのジャン・バルジャンも、本当に胸に迫ったかと言われれば違うだろう。
でも、高揚した。泣いた。
よく知らない文化や歴史を、頭ではなくただ感情を震わせることで伝えてくれた。
ひさびさに、洋画の力を感じたなあ。

でも実は、一番私の胸をついたのは、ジャベール警部だったんだよね(ラッセル・クロウはもっとほめられていいと思う)。
少々違うけど、『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』みたいに、ジャベール警部に焦点をあてた描き方も面白そうだ。だれか作ってくれないかしらん。








←信念と信仰が揺らいだ時の彼が素晴らしい

2013年2月3日日曜日

sinokの意味

長いこと放置していたが、ぼちぼち書きたくなってきたなあ・・・ということで、ブログ再開に向けて、ふとやってみたことがある。

・・・「sinok」ってどういう意味?

長いことネット上で「sinok」という名前を使っているが、これは自分の本名がもとになっている。
なのであまり意味も、いや読み方すら考えてなくて、うっかりリアルでネット上の人に会ったりすると「名前は何て読むんですか?」と聞かれたりしていた。

で、調べてみたら・・・

sinok = しゃっくり in タガログ語(笑

しかし、sinokをネット上で検索すると、「しゃっくり」よりもっと多く出てくるものがある。



おわかりだろうか?
さすがに私もしばらく思い出せなったが、懐かしや「グーニーズ」の悪玉家族の末弟である。
でも、あれ?と思い人もいるだろう。
そうなんです、フラッテリー家の末弟は「スロース(sloth)」だったはず。。
はい、では動画の音声を良くお聞きくださいませ。
・・・英語ではなく、フランス語の吹替なのだ。
どうやらフランスでは、「sloth」は「sinok」になってるのだ、なぜなのか不明だけど。
「sloth」は英語で「なまけもの」という意味があるが、フランス語にそういう意味はなくて、あれこれがんばったけど、出てくるのは「しゃっくり inタガログ語」ばかり(笑)

なにやら微妙な結果ではあるのだけれど、「グーニーズ」は子供時代の私にとってはお気に入りの映画であったし、グーニーズの「sinok」が三兄弟の末っ子なら、私のリアル生活も三姉妹の末っ子。
妙に親近感を覚えてしまった(笑)

ちなみに音は「シノーク」だった。

というわけで、私は「sinok(シノーク)」です、とやっと音でも名乗れるようになったところで、ぼつぼつまたブログをやっていこうと思う。